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第六天魔王の天下統一記

第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

昨日の朝、積込前に東海道を歩きました(* ̄∇ ̄)ノ

音羽蒲郡から国道1号線に。
東名高速じゃなく反対のオレンジロードから。

東海道と平行して上って、豊橋市下地町の大きなコンビニに駐車(今も居るw)

近くに積む所があり、
普段は田原市で下ろしてから行くのでちょうど良い時間なのですが、
減産の為に田原に行けなくて直接豊橋に。

その分時間が早いからの東海道です(^_^;)

ちょっと歩くと東海道(下り(北西)方面)
(下りの方はさっき行って来た)

昨日は上ります。

直ぐに下地一里塚。

歩道に石碑があるだけ。

江戸日本橋より七四里(約291km)
刻まれてないけど京都三条大橋からは約215km。

気持ちレトロな住宅。

向かいに石碑発見。
下地堤防改修記念碑でした。

堤防に登ると鳥が逃げて行く( ̄▽ ̄;)
豊川(市名は「とよかわ」だけど「とよがわ」)です。

下流方面。
約5kmで三河湾。

上流に行きます。
向こうに架かるのが豊橋(とよばし)
こちらも市名との区別の為に濁ります。

暫く歩いて思い出す( ゚д゚)ハッ!

屋根がちょろとしか見えないけど聖眼寺(^_^;)
境内に芭蕉塚と句碑があるので寄るつもりが堤防に上がって忘れた( ̄▽ ̄;)

戻らず進みます。

当時は豊橋の下流(右の木が三本立ってる所)に吉田大橋が架かっていて、
それが東海道。

泳ぐ訳にも行かないので豊橋を渡る( *´艸)
ここは田原から来る時にいつも渡ってます(向こう側から)

この橋からは…後のお楽しみにして、
渡って南側(こっちがいつも見る風景。勿論歩道からではない(^_^;))
親柱には「とよはし」となってる。区別される前?

下流に戻ってトヨバシ遊園。
吉田大橋跡です。

吉田大橋から明治に架け替えられて豊橋(まだ「とよはし」)となり、

(大正とあるから二代目?)豊橋の一部が保存されている。
北側の親柱。

前半が読みにくい( ̄▽ ̄;)
検索で探して…
「とよはし」は東海道の淀ノ橋、京橋、矢作橋、瀬田大橋とともに幕府直轄の五大橋と言われた(当時は吉田大橋だよね?)

以下要約して、
明治12年(1879年)にここで架け換えられる。
まだ木橋だけど親柱はここに保存されてるもの。

大正5年(1916年)に現在地に鉄橋に架け換え。
親柱はここのが使われる。
親柱は二代に使われたって事ですね(^-^)

昭和61年(1986年)にまた架け換えられて親柱は元の地に戻った。
流石に三代は使われなかった(^_^;)

二代目の時のトラスの鋼材。

南側。
大正五年…てのは彫り直し?

歌碑も2基あり、
「豊橋や 城にのこれる 夕かすみ 木朶」
地元の古市木朶(もくだ・1727~1810)

「初凪や 伊勢より船町へ 旅役者 孝生」
「へ」は要らなくない?

橋の下?には吉田湊があり…後述します。

三代目に戻って

県道を渡ると案内板(ずっと気付かなかった)
この辺りは池田輝政の時代から船町となり、
吉田湊は豊川舟運の終点として、

下地堤防改修記念碑の所にあった流域図。


伊勢や江戸への航路の起点として栄える。

東海道すっ飛ばしてたんですね(^_^;)

吉田湊は廃れましたが、
現在の豊橋港は田原港・西浦港・蒲郡港と統合され三河港となり、
自動車輸入全国1位、輸出は2位です(* ̄∇ ̄)ノ

新人を教えてた時に助手席から撮った三河港。
左が田原で右が豊橋の明海埠頭。

東海道は豊橋を渡って東に、吉田宿へと入って行くのですがいずれまた。

豊橋を戻ります。

渡り切るぐらいに上流を見ると

ズームすると吉田城ヽ( ̄▽ ̄)ノ鉄櫓です。
手前は国道1号線・現吉田大橋。

渡りきって

ズームしない所まで接近しますが、また次回。
似たような写真の連続になりますけどね(^_^;)

続く。