万博の時に開通したリニモ・はなみずき通駅前に
(万博行く時に乗りましたが速くはないです( ̄▽ ̄;))

常照寺。
ここに長久手で討死した三将(恒興、元助、長可)の墓があります。

階段を登って山門。
本堂の裏に

三将之墓碑。

書かれてる順ならば
左:池田勝入…池田恒興。
(勝入は晩年に入道し号しました)
父恒利・母養徳院(生年1536年。信長の二個下)
恒利は早くに亡くなり、養徳院は信長の乳母で信秀の側室に。
信長の乳兄弟であり、義兄弟になります(^^)
妻は木田城の荒尾善次の娘・善応院。
姉川の合戦の功で犬山城主に。(1570年)
謀反した荒木村重を破り、旧領の摂津を領す。(1580年)
変後は秀吉と行動を共に、清洲会議でも秀吉を支持。(1582年)
(これは仕方がない)
賤ヶ岳には参戦しませんでしたが、信孝の遺領の美濃で大垣城主に。(1583年)
(大阪築城の邪魔だったんだな)
そして、小牧・長久手でも秀吉に付き長久手で討死。(1584年・享年49…奇しくも信長と同じ( ̄▽ ̄;))
(尾張一国の約束と言われます。
それで義理の甥とも言える信雄と?
信雄じゃ器じゃないと思ったんでしょうか?
例え、ここで勝ったとしても家康も見限る時が来たでしょうが…( ̄▽ ̄;)
日本の為に秀吉に付いたと思いたいです)
中:森武蔵…森長可。
(武蔵守は受領名。「長」は信長より)
父森可成・母えい(生年1558年。信雄と同年)
兄可隆、弟に蘭丸達。
可隆は越前手筒山城攻め、可成は宇佐山城を守って討死した為に家督と美濃兼山城を継ぐ。(1570年。13歳)
妻は恒興の娘。
(当然従いますね(^^;)
甲州征伐の功で信濃川中島四郡を領す。(1582年)
(兼山は蘭丸に)
変時は越後侵攻中。
信濃に戻るも一揆が起こり、
兼山に戻る途中木曽で暗殺未遂。
戻っても周りは敵だらけ( ̄▽ ̄;)
一年近く戦います(^^;
そして、恒興と共に秀吉に付き長久手で討死。(享年27)
兼山7万石は末弟の忠政が継ぎます。
右:紀伊守…池田元助。
(紀伊守は父も使った通称)
父池田恒興・母善応院(生年1559年?少し後とも)
弟に輝政達。
恒興が大垣城主となると岐阜城主に。(1583年)
そして、父・義兄と共に長久手で討死。(享年26。この時輝政が19で、20代前半とも言われます)
輝政は父兄同時に亡くしたので家督と大垣
城を相続。(13万石。1584年)
後に岐阜城へ。(13万石。1585年)
(あれ?両方じゃないの?
片方没収されとるやん( ̄▽ ̄;))
(それでも丹羽長秀の子よりは良いか…123万石から佐々成政に内応の疑いを掛けられて15万石。更に4万石。後に14万石まで復活)
それでもめげずに(笑)小田原征伐に従い、東三河四郡・吉田城主に。(15.2万石。1590年)
そして関ヶ原後は姫路52万石(* ̄∇ ̄)ノ
孫の代になると鳥取32.5万石に減らされるんですけどね( ̄▽ ̄;)
長くなりました(^^;
墓所は領地だった美濃にもあり、
池田父子は池田町の龍徳寺。
長可も父と弟達と共に可児市の可成寺。
今年中には行けるかな(^^)
次は一方の勝者のその後。
続く。