無罪モラトリアム・・・
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静かになると、耳の奥からキーンという金属音が絶え間なく響き渡ってくる。耳からなのか、頭からなのか、血流の音だという人もいる。聴力には大きな障害はないが、もごもご喋る人や早口の人の言葉は聞こえ難い。

今の若い人は絶え間なく耳に音を注ぎ込んでいるから、恐らく早くから耳を損なうかもしれない。耳だけでなく目もやられてしまうだろう。昔は大きなヘッドフォンで、大音量のロックを聞いていた。レッドツェッぺリンやらピンクフロイドやらジェフベックやらジョニーウインターやら、耳はかなり酷使されていた。


耳鳴りは、それだけが原因ではないらしい。加齢という最大要因は、なんのどんな病気や障害などの根本である。若い頃には、決して気がつかない、思いも寄らない、老化。

林檎さんの新曲で、「僕たちは与えられ奪われる」と歌われていた。

「そんな風にできている」とも。


与えられる、とは私や個人の意志や希望や好みは無視されている、ということだ。そこに「選択権」は、ない。始めから、ない。お仕着せである。でも、与えられたものをいらない、と拒否する人は、あまりいない。聴力や、視力や、触覚や、その他五官を、自分には必要ないと思う人は、恐らく、心や精神に病を抱えているのだろう。というか、始めからそれらが備わっているので、それ以上や以下のものなど、知り得ない。始めからない人も同じだろう。


それら与えられたものを、私は、使いこなせないでいるうちに、徐々に失いかけている。総じて命そのものを、自分の目から見て、無駄にしている。生きていることを、こんな形で、無駄使いしている。


奪われるとは、与えられると同じで、私とか個人の意志も考えも意見も気持ちも、無視されて、強制的に執行されることである。

突然、事故や突発的な病変で死ぬ人は、確かに、奪われるといえるかもしれない。でも、少しづつ年を取ることは、奪われる、というよりも、徐々に失くしていく、という感覚のほうが近いように思う。

与えられたものが、少しづつ、零れ落ちていく。落ちたものは、もう二度と元へは還らない。個人の生活の如何によっては、その落ちて行く速度は、速かったりゆっくりだったりだろう。でも、最終的な行き着く先は、皆、同じである。


その終着点は、確かに「奪われた」為の、結果のように見える。命そのものは、私たちの誰にも、この肉体に注ぎ込むことはできない。だから、「奪われる」と表現するのか?では、一体誰が奪うのだろうか。


奪った命は、どうするのだろう?どこかへ還元するのだろうか。奪ったもののエネルギーになるのだろうか。


動物も、死ぬ。強靭な力と体力と巨大な体をもっていても、命がそこから奪われれば、彼らだって、もう二度と戻らない。その、体を動かしていたエネルギーはどこへいったのだろうか。


目には見えないものを、信じないという人が、未だにいるらしい。

あなたの命は、目に見えるだろうか。体に漲っているその、命の力は、体を解剖しても、レントゲンを撮っても、MRIを潜っても、どこにも見えないのだが。

あなたそのものが、見えないものが確かに存在するという証拠なのだが・・・

は、昭和10年に訳されている。今から78年前である。ヒルティは1909年に死亡しているので、死後26年経ってからの邦訳である。父の生れた頃、もう既にこの本はあった。

林檎さんの歌に幸福論があるが、ヒルティのものだろうか。ストア派について記されているので、もしかしたらそうかもしれない。


ご存じの方も多いと思うが、ヒルティの幸福論は、キリスト教の思想に彩られている。当時のローマカトリック教会の在り方についての批判もある。その中に、こんな記述があった。

「まだ小さな子供に宗教的教理を無理につめこむこともまた、教育上の誤りだ、とわれわれは考える。これは通常、キリストの言葉をすっかり誤ってとるところから生ずるものだ。聖書にはなるほど、キリストが幼子を「抱き、そして祝福された」とは出ているが、しかし、かれらに話しかけたり、教えたり、まして自分に従うようにと要求した、などとは決して書いてないのである。(マタイ18:2、マルコ10:16、ルカ18:16)子供に必要なのは多くの愛と手本とであって、宗教的教理はすこしも必要でない。ところが、後者(この方がずっと安上がりだ)が多く与えられれば与えられるほど、前の二つのものの与えられる分量はますます少なくなるのが普通である。そして子供が自ら宗教を要求する時期が来ると、この薬はそれまでに散々濫用されていて、もはや効き目がない。宗教を軽んずるすぐれた人たちはみな、このような生活体験をもつのである。彼等はあまりに早く、飽きるほど宗教の教理を聞いたか、あるいは彼等の両親や教師たちのうちに、宗教が悪く影響した実例を見てきているのである。」


この世界には、いや、世の中には、光輝く玉も、ただ黙して語らない石も、混在している。あの歌の詞のように、地下の壁や、ネオンサインの中に、答えがあるのだ。人は、それを見て、聞いて、知ってはいるけれど、心に届かない。

現代は、「自己肥大」化した人々が群舞しているそうだ。私もその中の一人である。しかし、それは何も現代だけに限られたことではないらしい。ヒルティは、「利己主義」という表現で訳された人間の在り方に対して、「真の哲学も宗教も、この利己主義から人を解放することをその目的としている。」と解く。


自己表現。自己実現とは違う。言いたいことを言い、言わずにはおれないと嘯き、当然中身は空っぽ。ジャンクフードと同じ、栄養にはならないけれど、その場凌ぎの中毒である。体は余分な脂肪で太り、心は下世話な話題で痩せていく。ヒルティの時代よりも、手を変え品を変え絡められていく。


「もう屹度潮時よ顔と名前の貸借。

 足を洗うべきよ媚と恨みの売買。」



ドラマの面白くない面白いの基準は、「答え」があるかないかだ。と気付いた。

日本の標準的なドラマは、火曜サスペンスとか温泉ものとか、夜9時枠とかは、必ず答えがある。犯人の心理だったり事件の真相だったり主人公の心情だったり。面白くない。答えは、大体、いや、いつだって自分で見付けるほうが楽しい。


犯人がたとえ分かっても、事件の真相が解明されても、真実がいつも一つだなんて、どこかの子供漫画じゃないですか。


アメリカドラマや映画の展開が速いのは、外人は辛抱がないからだよお母さん、と娘は言う。まぁ、そうかもしれない。だとしたら、いつも終わりに明確な答えが用意されていて、何もかもまぁーるく収まるエンディングしか望まない日本人も、辛抱が足りないのだ。


水戸黄門やコナンが長く愛されるのは、「真実はひとつ」しか好まない国民性なんだろうな。


答えのないドラマ、とは、さて、何か。

答えがない、というのは、じれったい。そこからあらゆる可能性や、意見や、関係や、思いを考えることが、苦手ということだろう。なんだ、せっかちなのは、日本人の特性ではないか。


容疑者Xの献身というドラマを、よかったという向きも多い。

よかったんでしょう。わしゃ、やだね。あんな自己中の一人善がりの献身なんて、ああいうのを「自慰」と言わずになんと呼ぶのでしょう?