挨拶状は儀礼的なもので、もちろんそれには意味がある。
挨拶は大事だし、必要だ。
なのに、それに傷ついたのはなぜだろう?
私たち三姉妹は認知症両親が施設にお世話になるまで終わらない介護に明け暮れた。
命を削るように誠心誠意頑張った。
認知症について理解を深めるために医学的なことを学び、
介護の効果的なケアを学び、
お互いのコミュニケーションの取り方を観察し、
試行錯誤しながら過ごしてきた。
公的機関、医療、介護のプロのお世話になった。
これまでは、それぞれ双方向の繋がりがあった。
しかし、介護付き有料老人ホームで両親が暮らすようになってそのバランスが崩れた。
一方的だ。
個人と社会の繋がりによくあるパターン。
このことについて、ある程度の想像はできたし、心の準備も、施設に対する理解もあったつもりだ。
がしかし。
実際は、認知症両親や私たちに関する個人情報は施設側に提供するのに、お世話してもらう側だから提供するのが当たり前で、否応なしに提供しなければならないのに(そこは理解しているし仕方ないこと)
施設側の情報は、事後報告で、請求しなければ開示されないし、請求しても教えてもらえないことも多い。
施設側で働く人々は守られているのだから、私たちは家族を人質に取られているような錯覚を覚える。
事後報告に関して本心を書けば、あまり納得していない。
そこに対して真摯に向き合う施設や関係者は少ない。
責任逃れに終始し、原因追求し改善策をたて実行し現段階でできていること、さらに改善できるのかどうかまで現在から未来を明るく見通し向上成長させていこうとする気配が感じられない。
実際は取り組んでいるのかも知れないが、その事についての説明はなく、勉強会をしているの一文と風景写真が年に一度の利用者家族向けの会であったくらいで、その勉強会が働く個人にどのような効果をもたらし現場で実際使われているのかどうかを知ることはできない。
その会すら現在は実施されておらず、文書などによる説明もない。
だから、また違った事故が繰り返され、犠牲者が増える。それは、利用者だけでなく、ケアを提供する働く側もそうだろうと推測する。
さて、事故や何かが起きるとき、その兆候は必ずある。
在宅介護していたから、突発的に起こる事故は実は少ないことを知っている。
突発的に発生したと報告される事故であっても、その兆候はほぼある。
ケアする人が気づかないか、気づいても何らかの理由によって無視しているだけにすぎない。
そこの線引きをルーティンとして明確にせず、曖昧なまま、作業としてケアをすすめていると、いつしか事故が起こる。
問題点はここにある。
一時の労力を惜しむことが、取り返しのつかない不幸をうむのだ。
面会できない両親は、どんな日常を送っているのだろう?
優しく着替えさせてもらって、食べさせてもらっているのだろうか?
靴は清潔だろうか?
洋服や肌着や靴下は縮んだりボロボロになっていないだろうか?
口腔ケアはしかるべき講習を受けた人が丁寧にしているのだろうか?
細かなところは全く見えない。
みんな頑張っている。
ケアしていただいている両親や利用者、働く人だって当然そう。
でもその頑張り方は、適正なものだろうか?
効率的な働き方だろうか?
効率的な、というと機械的にとらえるむきもあるだろうが、そうではない。
無駄な労力を省き優しいケアをする知識や技術の習得や円滑なコミュニケーションのためのテクニックの向上を常に更新しているか?
それが具体的にどのような場面でいかされているかという経過報告をし、利用者家族の理解を得る努力を経営者側がしているのか?ということ。
書き出したらきりがない(笑)
挨拶状くらいで傷ついたのは、このようなことがつもりに積もった結果だろう。
私自身は、事故が起きたときワッと感情的になり、いきなりなぜか?をガーッと調べ分析するタイプだ。
しかし、相手の立場や言い分を聞いてしまうと、熱が冷め凍りつく。
自分の中に様々なトラウマがあって癒されていないことが多かったから、上手く表現できず、自分も相手も納得できるような結論を提案として単純に導き出せそうに思えず、そうでないと伝わらないと思い込んでいた。
それで自分自身うまく表現できないことや世間の常識を頭でいくら納得させても、心やカラダはそれを拒絶していて、全体として違和感が大きくなっていっていたということだ。
腑に落ちていなかったから傷ついた。
ではこれから私はどうしていくのか?
自分の内側を見つめて出てきたことを、今日はそのまま書いてみた。
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松元佳子
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