認知症両親の暮らす施設の代表取締役が知らぬ間に交代していた。
挨拶状と月に一度のお便りで知った。
 
あたらしく代表取締役に就任された方をネット上で検索したところ、Twitterに6月中旬にすでに写真付きの投稿があった。
しかし挨拶状やお頼りに新任の写真や、交代についての詳細は一切書かれていない。
 
今月は、保険証や介護保険負担割合証などの提出があり、施設に足を運び、内容が少し理解できた。
とはいえ、コロナ禍で両親に面会できず、これまで事故などを経験している家族としては、一瞬、複雑を通り越して、憤りを感じた。
 
両親に会えない今、どういうケアをしていただいているのか、まったくわからない。
言葉で大丈夫ですよ、と言われても、実のところにわかに信じがたい。第三者のいない密室だ。
 
ケアマネさんのことは信頼しているが、日常生活において、担当者が十分に両親に対応できていないことは、室内の様子や両親の担当者それぞれに対する態度から一目瞭然だったから、不安がある。
もちろん、私たち三姉妹も尊敬する素晴らしい担当者もいる。
けれども、言葉足らずで自分の言動が相手にどういう影響を与えるか理解できていない未熟な担当者も実際いる。それはどんな場所でもそうであるように、例外ではない。
そこに不安を覚えるのは、家族として無理もないこと。
 
そういうようなことを、三姉妹で集まって話し合った。
これまでと同じようなサービスで、加算給付同意書を施設側から求められたからだ。
月額一人当たりの負担が増える。
両親二人分だ、バカにならない。
けれど、金額の負担が嫌なのではない。
そのサービスを両親がきちんと受けられるかどうかについて不透明なことが心配なのだ。
極端な話、やってなくてもやってますといわれれば、信じるしかないコロナ禍。
 
これまでだって両親の身体状態を観察すれば、その加算分のサービスが妥当に行われていないことは確か。
自宅介護をしていた私たちにとって、それは仕事として役割を担っている担当者のレベルの低さに辟易していた。
現場の介護職のレベルに異常に個人差があるからだ。
つまり仕事の質が極端ということ。
 
しっかりケアしてくださる担当者には、たくさんの給与を支払ってほしいと切に願うが、この人に見てもらうなら1円も払いたくない担当者だっている。
両親が苦心して貯蓄したお金を大事に使いたい。
私たち三姉妹はいつも俯瞰的な視点を持つよう、人間的に成長できるよう努力している中で、この事実としっかりと向き合い、傷つくこともあり、また助けられることもあると知っている。
 
けれども。
儀礼的な挨拶状。
そして誰だかあったこともなく、とりあえず挨拶状を送ってよこす新任の役員。
のんきなツイート。
社会福祉を担うものとしての心構えを疑った。
 
人の命を預かる現場。
新任の代表取締役の定型文の挨拶状で傷ついた。
印刷会社の定型文の通りだ。
何の心も感じられない。
私は、心通う挨拶状だったらこんなふうに思わなかったのだろか?
こんな定型文の挨拶状に費用があてられたのかと思うと、それだけで苛立つ気がした。
 
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松元佳子