脳血管性認知症の父
アルツハイマー型認知症の母
両親とも病状が悪化した場合、命の判断を任されている三姉妹の長女です。
今日は広島の原爆の日ということで、命について考えてみようと思います。
認知症の親の命の判断つまり延命治療について、現時点での私の信念を書きます。
「両親の延命治療はしない」と姉妹と話し合って決めています。
両親ともすでに後期高齢者、いつ亡くなってもおかしくない年齢です。
認知症になった両親ですが、「二人とも充分頑張って今も生きている」と子どもとしては思います。
けれども「延命治療をしない」ことを選んで、
後悔しないかどうか?
割り切れるのかどうか?
やはり不安はあります。
その不安は何か?
このことをここ数年、自分に問いかけてきました。
その間、自分のまわりでは親族の死があり、
また家族の病気入院治療において、主治医から延命治療の具体的な説明を受け、方針決定に立ち合うこともありました。
このことから、私がいつどういう状況で延命治療の選択を迫られるかはわかりません。
また「認知症介護家族アドバイザー」という仕事上、アドバイスすることもあります。
漠然と「不安」を抱くのではなく、
どういうことが想定され、
どんなことに人は後悔するのか?
どういうとき死を受け入れられるのか?
ということに常に関心を払ってきました。
親の死は、とてもデリケートです。
自分をこの世に送り出した源。
その事実こそが不安や怖れの根源だろうと思います。
さて、親の延命治療の有無。
きょうだいがいる場合は特に、私だけが決めることではありません。
私は三姉妹の長女でその役割が重いという負荷はあります。
父にも母にもきょうだい(弟妹)がいます。
親のきょうだい仲が良い場合、親族の意向が働く場合もあると思います。
きょうだいや親族の意向を聞く前に、親の延命治療の有無について、自分と対話しておくことが大事です。
さて最近次のような話を読みました。
「人は生まれる前に、何を経験したいかを決め、それに基づいて親を選び、死に方までも決めて生まれるのだ。」
これまでにも何度も読んだり、聞いたりしたことがある話です。
これまでの私には、ちっとも響いてきませんでした。
「そんなこと、本当かどうかわからない!」
死んだことのある人の話を聞いたことはないので信じられません。
でもまれに死んだ方のお話を聞ける方はいらっしゃいますよね。
実際認知症両親を長く在宅介護し、長い時間を両親とともに過ごしてきた中では、そんな方にお会いしたことはありません。
が、ここ数年自分が両親の死について見聞を広めた結果、死んだ方のお話を聞ける方と出会いお話をうかがう機会が幾度となくありました。
そのお話の数々と実際の経験を振り返って自分と対話し続けた結果、
「人は生まれる前に、何を経験したいかを決め、それに基づいて親を選び、死に方までも決めて生まれるのだ。」
という話が、響いてきました。
そうして自分と対話してみて、私の信念はこうかな?と。
現時点での私の信念
「目の前のことを受け入れ、そこから学ぶことを積極的にしていこう。」
両親は自分の死に方を知っているのだとしたら。
自分で時を終えるかもしれないし、その死を私たち家族に決めさせるという経験をそれぞれに与えるのかもしれない。
だとしたら、私は私らしく私の人生の日々を生きていればいい。
その中で経験することを自分と対話しながら刻むこと。
そうすればどのような選択をしても、出来事が起こっても、そうあるべきものだったと思えるのではないか?
みなさまはいかがでしょうか?
ご自身と対話し「私はこう思う!」を大切にしていただければと思います。
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松元佳子
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