身体拘束に私は何を感じているのだろう?
とてもざわざわして、抗いたい気持ちもあり、諦めているような気もする。
以前、祖母を病室に見舞ったときの話。
ベッドに固定され、寝たまま何かを必死に訴える祖母。エレベーターを降りたら声が聞こえてきた。
わかっていたけれど、やはりそれは衝撃だった。
その声だけで十分衝撃だった。
あの声、今でも覚えている。
病室の祖母を見たときは、なんとも言えない気持ちに襲われた。
心がひどく動揺し、嫌な汗とグレーのスライムみたいなネガティブな感情の塊が自分の中にある底無し沼にみるみる落ちていく気がした。
その後、底無し沼にハマったはずのネガティブな感情が沸騰し何度も甦ってくる。
そしてそれは、母のときにも、父のときにも否応なしにやって来た。
その時のそれぞれ両親の目は、両親自身のものではなく、生きることに貪欲な動物の目だった。
その状況になるような事情はわかる。
だからといって私がずっと隣に居ることはできない。
でも、絶対に何かがおかしいという不快感。
誰にということではなく。
ただ漠然と環境や社会の在り方の不条理に疑問と怒りなどのネガティブな感情をおおいに抱いた。
ただ漠然と環境や社会の在り方の不条理に疑問と怒りなどのネガティブな感情をおおいに抱いた。
人として生きていると言えるのだろうか?
医療や介護を受けているはずなのに、まるで動物のようだ。
本人が不快感を顕に叫んでも自由に身動きできない。
正気を奪われた状態にみえた。
絶望し生きる気力を奪われていくようにみえた。
だからといって、そこで働く人を責めるものではない。
そうでもしなければ、働く人の安全や環境が保てないのだから。
何度経験しても、悲しみと怒りと情けなさと切なさと、そういったネガティブな感情で埋め尽くされる。
ついつい見なったことにしたくなる。
その感情に蓋をしたくなる。
なのにその感情は、生き続けさらに増殖し続ける。
どうすれば良いのか?
何かできることはないのか?
あぁでも私にその責任を負うことはできない。
自分のこの感情すらどうしようもできないのに、誰かのために自分のすべてを投げ出すことはできない。
だってわたしは…、エゴから離れられない。
昔負った心の傷がまだ痛む。
どうしても分けて考えられない。
そして現在。
このことは、深く私に刺さったままだ。
でも一歩進めて考え感じてみる。
例えば、その姿が親ではなく自分だったら。
早く死にたいと思うのではないか?
ふと正気に戻ったとき私に耐えられるはずがない。
何の希望もない。
もしそこに悪魔がやってきたら、魂を売るかもしれない。
死を恐れながら、死を望む。
死に触れること、向きあうこと。
逃れられない。
これから人がどんどん死ぬ時代がやってくる。
その時生きている人は、親しみある人の身体拘束や死にたえられるのだろうか?
誰もが確実に体験すること。
なのに触れることはタブーであることが多い。
それで良いのだろうか?
しっかり生きていけるだろうか?
自己問答と学びは続く。
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松元佳子
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