認知症両親の介護で悩みが絶えなかった。
今思えば、その悩みのほとんどは親との関係が原因。
さらに今だから言えるのは、私が本当の私を知らず、知らず知らずのうちに母親が望む私を生きてきた部分が大きかった。そのことに気づいておらず、母のようになれない自分が苦しくて、どうしたらいいのかわからなくて悩んでいたのだ。
 
三姉妹の長女「お姉ちゃん」の私という呪縛
妹ができた時から、わたしは「お姉ちゃん」として育てらた。私は三姉妹の長女「お姉ちゃん」。
妹たちの面倒を見ながら、母の手伝いをし、母がいなくても日常をまわせるよう家事を仕込まれた。それは長女として育った母がそうであったようにわたしを育てたから。
 
私は長女の役割に納得していなかった。何かと両親から繰り出される「お姉ちゃんなんだから」が大嫌いだった。
私は両親に長女という役割をすることを当然のように求められ、「お姉ちゃん」でいることを強いられ責任まで取らされた。それがどうしようもなく嫌で嫌でしょうがなかった。両親に「お姉ちゃんなんだから」と言われたとたん妹たちが妬ましく憎らしくなるスイッチが入った。
 
「お姉ちゃんなんだからちゃんとやってね!」
小学生になったころはすでに妹たちの面倒を見るのは私の役割。
母が買い物や用事にでかけるとき、妹たちと留守番。
「お姉ちゃんなんだからちゃんとやってね!」といって母は家を空ける。
 
母は、おやつを準備し時間になったら妹たちに食べさせるよう私に指示。小さな妹たちが怪我をしないよう、妹たちのそばでちゃんと見ているように言われる。
 
そのうち役目がどんどん増え、洗濯物を干したり、畳んだりから、洗濯自体を任され、掃除をしたり、夕飯のご飯やみそ汁の準備を教えられた。
小学校高学年のころは、母の代わりに自分で買い物に行ってご飯を作ることはできた。
母が捻挫して歩けなくなった時、母のかわりの家事をやることができた。それ以来、母がやむを得ない事情で家を空けるとき、母の代わりをするのは当然わたしの勤めになった。
 
お姉ちゃんらしくあることがアイデンティティ
高校生のとき、父が離島に単身赴任した。
母は何もできない父のために、月に1~2週間島に行った。三姉妹を置いて。
今思うと母はなかなかスゴイ人だ(笑)
当然母から「お姉ちゃんだから令」が出る。
島に行くとき母は「これでよろしくね!」とお金だけ私に手渡しして出かける。
それは信頼されているということなのだが、当時それが納得できない反抗期の私だった。
反抗期なのに、反抗期らしいと親と面倒くさいことになるとわかっていたので、良い子に徹するずるがしこくひねくれたやつになった。
 
母が父のところにいっても日常はかわらない。
三姉妹はそれぞれ学校だ。
自分のお弁当を作り、妹たちのために食事を作った。
あとの掃除と洗濯は、妹たちに分担し押し付けた。
「お姉ちゃんなんだから」が大嫌いだったわたしは、その分担を妹たちに守らせることに必死だった。「絶対に私は掃除と洗濯はやらない!」親への反発で八つ当たり。思春期あるあるだろうか?(笑)
可愛そうな妹たち。あの時はごめん。
 
しっかり者のお姉ちゃんに自己満足
母がいないとき妹次女が感染力の強い流行りの眼病にかかったことがあった。家族ひとりがかかったら間違いなく家族全員感染するといわれていた。
学校から帰ってきた妹は目が痒いと目を掻き、その後みるみる赤く腫れあがり熱が出た。
すぐにピンときて対処法を調べ、家にあるものだけで完璧に対策した。
妹次女が痛がって泣くのをなだめながら、両親の寝室に隔離し、妹三女に感染しないよう細心の注意を払う。
夜は妹次女の横で彼女の手を握り、様子を観察しながら看病した。
翌日は運悪く日曜で、休日在宅医を調べ、叔父に相談し、その病院は家から遠かったので叔父に妹次女を病院に連れて行ってもらった。月曜は妹次女の学校に連絡、自分も学校を1日だけ休み妹次女の看病をした。
その後は妹次女に行動範囲を言い聞かせ、妹たちの殺菌消毒に万全を期す。そのかいあって、わたしも妹三女も感染せず、もちろん後から帰ってきた母も大丈夫だった。
私は両親の期待通りの私であることに満足した。
 
母の仕込みは完璧で、私の意地もなかなかだ(笑)
この調子で母は大学受験する私に一切特別扱いをせず、わたしも意地で地元の国立に推薦で入学する。頑なすぎて笑える。
 
強すぎる親への承認欲求の果て
そんなわけで、私は本当の私が何をしたいのかよくわからない人になった。
親への承認欲求を満たすことだけ考えていたのだから、当たり前である。
当時の私は漠然と自分がわからないという不安を抱えていた。
それでもなんとか自分を掴みたくてもがいていたんだと思う。
 
「あれがやりたい!」「あそこに行きたい!」「将来こういう仕事をしてみたい!」
積極的な友人たちがとても眩しく羨ましかった。
そうして自分は何がしたいのか?どういう仕事に就きたいのか?
全然わからなくて暗中模索、途方に暮れた。
それでもなんとか絞り出して成り行きに任せて、自立への憧れで実家から離れることを夢見た。
 
親との関係がいびつだったから、親へ自分の意見を主張できず(主張すると親の都合のいい方に捻じ曲げられた)人と関わることが苦手だった。
無意識に人にコントロールされることが怖かったんだろう。
このころ心の中ではいつも「でも仕方ない」などと諦め、自分に言い訳ばかりしていた。
 
家族と介護の悩み
社会人生活でかなり鍛えられ自由を満喫しようとなったとはいえ、実家に戻ると昔の私に逆戻り。そして母が若年性アルツハイマー病になった。
家族関係に悩まないわけがない。
それまで我慢していた感情が溢れ始め、家族内で摩擦が大きくなった。
お互いの気持ちがわからなくてイライラしたり、悲しくなったり、それでもがむしゃらに頑張って壊れたりした。
 
親とのミスコミュニケーションから妹三女とうまく行かないことが増え、それが悩みになった。
うまく意思疎通できない両親、事実を受け入れられない妹三女。
父と妹三女とは揉めに揉め、母は自分の殻に閉じこもり、深い話はできなくなった。
一方妹次女とは共感できるようになり、二人で慰め協力しあった。
どうすればいいのか?
精神的に不安定な自分への根本的な対応がわからず、何がいけないのか原因もわからず、家族でお互い責め合って苦しい時期が長かった。
どれもこれも「お姉ちゃん」の呪縛が原因だったのだが。
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松元佳子