かなり抽象的な話を書いてみます。
このブログを今書いているわたしはここに存在しています。
そんなわたしもいつかは死にます。
死によってわたしの存在はなくなってしまうものでしょうか?
この地球上の生物はみな生まれ成長し死を迎えます。
同じように見えてもその状態は持続しておらず、常に全体が変化しており、必ず死が訪れます。
当然のことながら、自分がひとつのモノや人や動物に関わり続けることが出来るわけではありません。
ひとつの命を迎え、送ることができるとしたら、それはおそらく奇跡です。
しかしその奇跡は、自分にとって幸せを感じるものか、不幸を感じるものか、それはわかりません。
受け取る人次第です。
受け取る人の苦悩は出来事と感情によって起こります。
この世で人として生きるわたしたちが逃れることのできないものです。
その苦悩を、苦悩のままに生きるのか。
後悔し続けて自分もまた死ぬのか。
苦悩を忘れることなく、自分の内側から湧き出るものに従って、なんらかの行動を起こしていくのか。
どれを選ぶこともできます。
わたしはどのように生きたいのか?
どんな存在になりたいのか?
家族や他人に爆発しそうな感情を抱えた時、このように自分の在り方=存在を考えて、感じてみると、その時の衝動で動き後悔してしまうことが減るのかもしれません。
しかし、もし衝動で動き後悔してしまっていても、それを否定することはありません。
どんな選択をしたとしても、今を生きる自分に変わりはないからです。
すべては自分に返ってきます。
自分は自分でしかない。
それは大きな宇宙の一部分に自分が存在するということです。
存在は死ぬことですぐに消えてしまうわけではありません。
誰かの記憶に残るうちは、存在し続けます。
それは私が望む存在の在り方であるかどうかは選択できません。
生きていたときの自分の印象次第。
それを見ていた誰か次第。
死んだあとを心配するより、生きている今自分がどう存在したいのか?を具体的に考え行動する。
それが生きていることで、次第に自分の存在意義を知ることができるのです。
死んだあとを心配しなくてもよいですが、死んだあとの自分の始末が気になる方は終活をおすすめします。
認知症両親の在宅介護をして、自分や両親、家族の存在に向き合い、そして周囲の方々との人間関係、たくさんのことにわたしは悩み迷ってきました。
それは自分や相手の存在を漠然としか捉えられていなかったから。
自分の存在している事実を受け入れること
相手との現実的なかかわりを受け入れること
自分という存在の意義を考え続けること
目の前のことから逃げずコツコツと精一杯を尽くしてきた結果、今になって自分の存在意義を理解しはじめ、これからにつなげるスタート地点にたったような気がしています。
このことはここ数年行動し学びそこで出会った人から刺激を受けることで、急激にバラバラだった自分の経験や思考が整理統合されたから。
闇雲に目の前の出来事に流されるのではなく、自分はどう生きたいのか、存在意義を自分に問いかけながら、流れにのって生きるとおもしろくなるのではないか、と思った夜。
松元佳子
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