お断り
急にどうしても書いておきたいことを書く。
話がビュンビュン飛びまくるので
大丈夫な人だけ読んでください。
義父は自分が中心で世界をまわす人w
「オレか?オレ以外か?」
が常識的に思えるほど。
義父の場合世の中観客はたくさんいて欲しいが、
「(存在するのは)オレさまだけだ!」www
人の話は俺さま義父が
自分が気分良くなる好都合な部分だけ拾って
さらに盛ってインプット。
それゆえ話の食い違いは日常茶飯事w
話に主語はなしw
俺さまだからね!笑笑笑
「常識的には」と義父が言うとき、
それは世間一般ではなく、
「義父的には」なのだ。
わたし、結婚してからこれまで、
義父に対して
「なんなんだ?この人は?」
と
驚く
呆れる
バカにする
イラつく
怒りがこみ上げる
嫉妬
など感じてきた。
それが今わたしは義父に対して
「義父は自分らしく生きている」
とようやく思える。
表面的ではなく内面的に
「義父は義父、わたしはわたし」
と腑に落ちたんだ。
表面的に納得していても、
まだわたしの人生劇場の一場面の主役を
義父に明け渡していた。
内面的に納得した今は、
義父はわたしの人生劇場のわき役、引き立て役。
「ドラマティックな演出ありがとう!(笑)」
人はひとりでは生きていけないが、
自分ひとり生き抜いていく力=生命力は持っているのだ。
確信している生き抜く力は誰にもある。
理由はわからないというか理由はない。
自然と湧き上がる強烈な個性のような生への欲求は、
どろどろとした欲望とは似て非なる純粋さがある。
昨年義父が余命宣告をされるた病気。
その入院生活を事細かにみて寄り添い、
その後現在に至るまでの見守りや
あれこれしたお世話を通して実感した。
人は生かされているが、
個人にはそれぞれ生きる力がある。
それが良し悪しは別として純粋な個性。
このことは、
わたしが認知症両親に抱いてきた疑問。
認知症になって
自分のことがわからないことが度々あり、
思考したり記憶したりすることができなくても、
それでも人の手をかり食べて出して、
喜怒哀楽を感じそれを自分なりに表現し、
生き続けるのか?
のひとつの確かなこたえ。
食べたい、食べることができる。
それは生き続けるという魂の欲求。
人は誰かに見守られ助けられる。
それは助ける人の学び。
助けられる人は生きているだけで尊い。
生きるという欲求を叶え続けているのだから。
助けるわたしは
学ぶ勇気を持ち
相手と自分に向き合い続ける。
そこから見いだされるものがわたし。
助ける人は人を助けることで
純粋な自分を見いだしていける。
人生に特に目標はない。
目の前のことで精一杯。
それはわたし。
わたしは、
目の前のことを大切にする。
もっと踏み込んで
そのときの自分の感情の根っこを探す。
感情は人生の道しるべ。
表面的な喜怒哀楽ではなく、
その奥に潜む本当の喜怒哀楽の理由を発掘する。
そして知る。
それがわたし。
わたしそのもの。
それでようやく自分に自信をもって
生きることができるんじゃないか?
わたしは自分に自信がない
ダメダメブレブレ人間だ
と自分のことを思っていたし信じていた。
それはそれは悪魔の呪文のように。
悪魔の呪文はとける。
生きるという欲求がなくなる日まで
自分を自由に羽ばたかせてあげよう。
私の目の前にあるものが
わたしを輝かせてくれるもの。
すべてはある。
目の前のことを人を慈しもう。
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松元佳子
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