子どものころの思い出話。
母は、きっと母自身がそうだったようにわたしに長女として一家を守る役割を仕込みました。
田舎で戦中生まれ戦後育ちで長女で5人きょうだいの第一子だった母。
 
そんな母の子育ては、今のわたしからするとどこかいびつw
放任主義っぽかったのですが、
それは長女としての役割をわたしが果たしたうえでのお話し。

小学1年生になったら、
ご飯、味噌汁を仕込まれていました。
掃除、洗濯も、か?!
そうするように仕向けられたというw
わたしは母の愛情を得るために、
自ら進んで家事をしなければならない状況ww
中学生のころには家事全般できたwww
 
高校生になったら、
父が離島に転勤。
1週間に1~2便の船しかいない離島で、
母は家事もなにもできない父のために、
最低月に1週間長い時は2週間以上離島へ。
 
その間、妹たちのすべての管理はわたし。
母からはいつも1万円札を手渡しされ、
「これでお願いね」的な安易なご依頼。
 
 母がいないときに、妹次女が急性出血性結膜炎(アポロ病)にかかったことがありました。

感染性の強い眼病で、いち早くその知識が少しあったわたしは、すぐに対策を調べます。
妹三女と自分にうつらないよう細心の注意を払う。
妹次女の行動を監視し看病しながら感染性対策を抜かりなく行う。

休日に妹次女の症状が悪化したため休日当番医を調べ遠方だったため母に報告し、叔父に車を出してもらい受診。
確か予算の一万円ではタクシー代が足りなかったから母に報告し指示を仰いだのでした。
便利なスマホなんてなかった頃、その場でわたしが判断しなければならないことが多くありました。
お金だけは、予備がなかったなぁ。
なんか笑えるw

翌日は、学校を休み妹次女と過ごす。
妹三女は、ふだん通りに生活。
結果、妹次女だけの感染で済みました。
当時この流行り眼病は、家族ひとりがなると全員罹患するくらい感染性が強かったので、我ながら天晴れ(笑)

突発的な出来事でも高校1年生のわたしがしっかり妹たちを守る。
それくらい母の仕込みは完璧だったのです。

あ~こわっ!←ここにわたしの気持ちが集約されていますwww
 
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松元佳子