認知症両親への対応で、
嫌だな!
困るな!
と思うことがあります。
それは、
介護している側が自分の思い込みや決めつけ=自分にとってのふつうを、
無意識に認知症両親に押し付けているとき。
特に仕事が介護という方に注意して頂きたいこと、
「常に意識的に作業する」。
あなたの無意識が認知症の方の混乱や不安を煽ってしまっていることが多いということに気づいて欲しい。
ちょっとした日常の生活動作にも無数にあることです。
あなたのミスなのに、認知症の方の不穏行動とか暴力と決めつけないで欲しい。
世の中には無意識に責任転嫁する人が多すぎますけどねw
無意識で生きると不幸しか呼ばない気がしますwww
さて例としてあげるのは、
今回はこれから増えるであろう「お花見」について。
たとえば、お花見。
認知症の症状が進行してくると、
季節感がなくなっていきます。
お花見という記憶も次第になくなります。
花が大好きだった人でも、
「花って何?」
言葉から「花」が何かさえ想像できなくなるのです。
もちろん「お花見」に特別の思い出があったり、
「お花見」大好きな方にとっては、
この上ない喜びです。
でも、みな同じ価値観ではありません。
価値観が症状とともに変化することもあります。
自分がお花見が好き、楽しいと思っても、
今現在の認知症の両親にその認識があるかどうか?
まずそこ。
以下のように考えていきます。
両親に「お花見」と言って、
そのことばの意味を理解できているかどうか?
確かめる。
ふつうはこれからの季節「お花見」といえば、
「桜の花を見る」ということです。
父はまだ「お花見」が何かたぶん理解できます。
「花」は「桜」。
桜を見に行くことは日本人の季節行事。
桜の木の下で、
お茶やお弁当、お酒を頂きながら、
おしゃべりを楽しむ。
母は「お花見」が理解できない。
ことばだけでは理解できない。
この状況で両親にわたしが、
「お花見しよう!きれいなんだよ!」
などと言いながら、
何がなんだかよくわからないまま
外に連れ出される。
両親の前にいるわたしははしゃいでいる。
やたら笑顔で機嫌よく話しかけてくる。
そんなわたしを見て、
両親は混乱して不安になるかもしれない。
「今年の桜を一緒にみたい!」
そういう私自身のただの自己満足ではないか?
「桜をみたいに違いない!連れて行ってあげよう!」
私の思い込み、決めつけ、傲慢ではないか?
やってみればわかります。
だからやることに意味はあります。
しかしもしも両親が「お花見」していることがわからず、
逆に混乱しているとわかったら、
すぐに桜を見るという目的を切り替ることが必要。
実際お花見で母は全然楽しそうじゃなく、
むしろわけがわからなくて不穏でした。
そういうとき例えば、
ただ日光を浴びて気持ちいいと肌で感じることを目的にする。
あたたかい冷たい気持ちいいなど、
五感への刺激を確かめていくこと。
その中で「心地よい」にフォーカスする。
執拗に桜桜と両親に言ったところで反応がなければ、
桜という言葉は両親にとってストレスになる可能性がる。
または「桜」について、
ラジオのスポーツ中継のように両親がイメージできるようにたくさん語りかける。
両親が興味をもちそうなことばを繋いで、
「桜」の思い出話などをいくつも語りかける。
あなたは理解できないことをストレスだと思ったことはありませんか?
わたしは認知症両親の介護を通して、認知症の方々の抱えるストレスは相当なものだと想像するに至りました。
ではどうするか?
理解できないことで、
本来の目的が達成されなくても、
今感じていることを、
最大限楽しむことに集中する。
自分と人のふつうは違う。
自分の思い込みや決めつけを押し付けるのは介護ではない。
介護される側の心地よいをその時々に合わせて提供する。
その時々を心地よく過ごす柔軟性を身に着け実行したいものです。
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松元佳子
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