この20年若年性アルツハイマーの母に寄り添って、途中父の様々な病気入院などを経験して母や父の介護とはどういうことか?アルツハイマーの母の見ている世界はどんなだろうか?私なりに、観察、実験、導き出した方法を検証、発展、生活で実行、家族で共有、というチャレンジをしてきた。
日常生活で日常をスムーズに送るための改善などはたくさんあるから、きっと母のためにもできるに違いないと思って。
 
母の見ている世界を想像してみるということは、アルツハイマーの母だけでなく、私のまわりのその他の人々へと応用できる副産物としての贈り物。
最近私の苦手で嫌いなタイプの義父に付き合う時間が多くなってひどくストレスを感じていたとき、母の見ている世界を義父の見ている世界に当てはめて試してみたところ、ストレスだったことが実験への興味へ変わり、楽しい時間に(笑)
 
母の見ている世界を想像してみることとは?
<設定>
母と過ごす同じ場所で同じ時間。
<環境、出来事、感覚>
アルツハイマーの母と私とでは、その場所の認識や記憶が違っているという前提条件がある。
母にしか感じることができない、見ることができない、幻覚、幻視がある。
私には感じることがでいないけれど、母は感じている。
私と母の違いを肯定的にとらえ、知る。
 
一般的に家族というつながりの中で、私の感じることと、これまでの私のイメージの母の感じることは、まったく同じで「違うはずがない」という否定から入る。
家族という単位には、それぞれのそれぞれに対する思い込みが長年蓄積されている。
「母ならこう!」という思い込みだ。
しかしアルツハイマーになった母は、まるで別人。
私の知っている母ではない。
ここで、自分に母という人物像のギャップが生じる。
どうしてこんなに違うんだろうと違いに狼狽。
違いを受け入れるというのは、書く以上言う以上に難題なのだ。
違いなんて受け入れたくない!これまでの母でいてほしい!
違いや変化への拒否拒絶反応はすごい。
そのことに気づいて冷静に対処することは、両親に対して死ぬほど難しく感じた。
 
母の感じていること、見えている世界、言葉を感情をこめて否定したりせず、私には感じられないけれどもそこはいったんおいて、母は感じているという事実を受け入れて言葉や行動に出してみる。
母は、何か不安や心配が湧き上がると確かめようとして、その不快を取り除こうとして、私に訴えてくる。だから、まずは肯定。
その母の見えている世界が私に見えないとき、母の見えている世界はここにはないことを、一緒に確かめていく。この一緒に確かめていくことが、よく言われる寄り添うこと。
寄り添うことは、癒すこと。
母が癒されるとき、実は自分も癒されている。
違いを確かめる作業=寄り添うことで、不安や恐れが癒される。
 
考えてもみれば、何もかもが違うのが人というもの。
なのに人は違うことが不安や恐れになる。
 
母の見える世界を想像すると、
わからないことだらけ。
私が一緒に見ている世界は、
わかることもあるし、知らないこともある。
同じ景色を見ても、わからないことだらけの母にとっては、恐怖。
私にとっては、日常のなんてことのない景色で、感情は特にない。
私が一緒にいれば、母は安心。
それは母の不安や恐れなどの不快を取り除けるから。
私は母が何に不安や恐れなどの不快を感じるか想像できる。
 
そして、それは父にも言えることだし、周りの人にも言えること。
こんなことを体験して思うのは、人は違って当たり前で。
違うけれども、想像することはできる。
想像して、その違いを、検証していくと、事実を受け入れやすくなる。癒される。
これを義父に試して、自分とは違いすぎて一緒にいると疲れるんだな、そういう時はこの言葉で距離を取ればいいんだな、という私の中の塩梅が理解できてきた。
親との繋がり、うまく利用していると思った。
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松元佳子
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