親が生きているうちにあと何回会えるだろうか?なんてCMがあったような。
さて、私はあと何回両親と会い、時を共に過ごすことができるでしょうか?
それはどんな、たとえば楽しいのか苦しいのか最悪なのかごく普通なのか何もしゃべらないのか?
日常のルールや何気ない時も視点を変えてみるとハッとすることがあります。
セルフマガジンは自分のために作ったものですが、両親と妹たちとのわたしの歩みでもあり、非日常だったことが日常になる残酷さや混沌とした感情とともにあるありとあらゆるものをシンプルに救い上げた冊子となりました。
マガジンには、感情はあまり書かれていないような気もしますが。
認知症両親の介護は、お互いの感情がつねに巨大竜巻に飲み込まれるような瞬間瞬間の積み重ねであったこともあれば、ただひたすらお互いを無視し続けることで作業を淡々とこなし、感情をぶつけ続けたり殺し続けたりするような、なかなかに過酷で孤独な日々でありました。
そんな中で家族の意味を知っていったのかもしれません。
家族は特に母親というものは子どもを自分の一部のように認識するものですが、実はどこまでいっても平行線の交わることのない個と個であると、お互いはまったく別の人間であると、認識し、各々の人生は各々の責任であるのだな、と思い知ること。
それが相手を尊重するということ。
若年性アルツハイマー病を発症した母を可哀想だと思ったこともありましたが、認知症介護の修羅場を迎えるころには、それも母の日々の選択の積み重ねだったのだと実感するまでに至りました。
一方で父に対しては、若年性アルツハイマー病を発症した妻を持ったのは自業自得だと侮蔑を過去感じたものでした。
結局現在の両親の在り方は、本人の意思の積み重ねなんだろうなと。
そこに関わるのも、関わらないのも、子として選択は自由。
自由だけれども、なぜ自分はこの親のもとにうまれたのか?
そのことに意味を求めようとするとき、関わり続けるのが私にとっての生き方なのではないか。
自分を見出していく作業は、おもしろくもあり恐ろしくもあり不思議でもあり当然でもあり。
それらが混然一体となっている点は面白いな興味深いなと思うのです。
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松元佳子
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