両親が育った時代は戦中戦後。
不安や恐怖をとてつもなく感じて
モノがない子ども時代。
高度経済成長時代を経て
豊かな物質社会になったおとな時代。
今は有り余るモノを所有してしまい
ごみ屋敷を断捨離する。
平均寿命がぐーーーんと伸びて、
受けられる医療も社会保障もすごい。
 
さて。
若年性アルツハイマーを発症した母に
20年も寄り添ってきて思うのは、
「どうして母はアルツハイマーになったのか?」

わたしの勝手な結論は、
「母は我慢しすぎた。自分を押し殺し過ぎた。」
母は、どちらもあまり表現せず
全部飲み込んだんじゃないだろうか?

自分さえ我慢すれば、
とか。

アルツハイマーになり
感情のたかが外れた母の表現の激しさは、
今までため込んだもの
全部吐き出す勢いがある!
 
 
血管性認知症の父は、
「バランスが悪すぎた」

父は自分の意思はほぼ押し通し、
特に家族に対しては
横暴ぶりが裸の殿様級。

しかし天下は続かず妻がボケて
今度は妻に振り回される番が巡ってきて、
ストレスしか感じない日々が始まり
父の想像を絶した。
 
そうしてわたしはというと。
両親それぞれがわたしに、
自分か親を投影して私を育て、
その枠(罠)にわたしはまってしまい、
純粋なわたしを押し殺して楽に生きようとした。
(楽に=親の思う通りに)

徹底的に親に反抗していたら
こんなことにはならなかったかも、
なんて今は思う。

楽しようとするととんでもなく難儀になるというのは、この世の法則?!
 
視点の持ち方というのは、
親と子という個別の視点で悩みが深くなったり、
なんだかわけわからない方向に落ちていくけれど。

時代や社会の背景という視点では、
生活する個人はその時代や社会に否応なく影響される。
 
自分の親世代が育った時代や社会、
その親を育てた世代が育った時代や社会、
時を経て自分がいる。
時代や社会のせいだと言いたいわけではなく、
自分の持ってる背景に思いをはせる視点を持ってみると、
納得できる部分が少しはあって、
それが少しあるだけで、
その分だけ気持ちが楽になったりしませんか?
っていうこと。
 
そこに興味を持って前向きに
親子で話をしてみるのはいいかも。
 
私がそういう話をしたって、
母は微笑むか難しい顔になって
わーわー言い出すだけだけど、
父は「わからん」っていうだけだけど。
できる人はしてみたらどうかな?
 
「ねえお母さん(お父さん)、
お母さんはわたしに○○っていうけど、
お母さんはお婆ちゃん(お爺ちゃん)に○○って言われたの?
それとも、お婆ちゃんのお婆ちゃんに○○っていわれた?」
その答え次第でいろんなこと思い浮かぶかもしれない。
ワーワー言う母(父)、
とぼける母、黙り込む母、腑に落ちる母とか?!
 
このことは、
両親が施設入所時に提出する経歴書を書いて浮かんだこと。
人は環境で作られる。
 
環境に時代や社会が入るという視点。
 
その環境を視点を踏まえて、今自分にできること。
感情を表現するとき、
プラスもマイナスもバランスよく。
どちらかだけに傾いてきたと感じたら、
修正できると思えばいい。
 
日常自分の内側に感じることを
うまく表現として外側に出せたら、
違和感やギャップに振り回されなくなるのかも。
 
それって面白いな?って思ったりして。
生きるって凸凹だもの!
 
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