両親とも認知症で、自宅で家族が助け合って介護する。

そんなことを妹たちと決めてやってきた。

だけど、親の病気のせいでできないことばかり、

なんて被害妄想に陥ることも多かった。

 

認知症が人の老化現象だからといっても、

母は若年性アルツハイマーで、

50代で発症した母にとって、

病名が確定することは、

不治の病の宣告を受けることとなんら変わりないこと。

ちょっと時間がある余命宣告だと母自身は思っていたと思う。

それは家族にとっても同じこと。

時間はあっても、治らない。

治すこともできない。

いろんなことができなくなり、

その恐怖と戦うんだと母も私と妹次女は思ってた。

だけど、父と妹三女は「仕方ない」と

ただ成り行きに任せるような言い方をした。

この二人の「仕方ない」は、あきらめてるふりであって、

本心ではあきらめるどころか、

病気の現実とこれからの一切を拒否拒絶してた。

二人は何も決めず、

母の今後について、家族の今後について、

現実とこれからを想定して、どうするか、どうやっていくのか?

を決めるのは、いつもわたしにゆだねた。

それは、こんなみじめな人生を認めたくないという気持ちや、

母の病気で変わる自分たちの人生の責任から逃げたかったんだろう。

そのころ田舎で一人暮らしをしてた父の母のことも気がかりだった。

だけど、そんなことはおかまいなしな父。

「できないことはできない」って言いきって、

「できる人がやればいい」とさっさと自分は逃げる。

やりもしないし、

できる方法も考えないし、

誰かに(兄弟姉妹や親族)相談もしないし、

「自分にはできない」と言い張る。

自分の父の言葉とは信じられなったな。

というのは。

実家の本棚、部屋の半分以上を埋めてた本は、

素晴らしいことがたくさん書いてある書籍ばかりで、

この本を読んだ人が、

このようなセリフを娘に吐くんだと思ったら、

あまりの矛盾に倒れそうっていうか、

その本を投げつけたい衝動に駆られるというか。

そのくせ外面のいい父は、

外出先では、同じようなことを言う人に

説教気取り。

そんな父をみるにつけ、

「自分はどうなんですか?」と腹立たしかった。

当たり前のように人には言えても、

自分のことは当たり前のうようにわからないのが人なの?

そんな父に、

「たまにはお母さんと○○したら?」

と父でもできそうなことを提案しても。

「自分は◇◇をもってないからできない」

「お前たちが△△してくれないから無理だ」

って、私と妹次女がなにかできることはないか?と

知恵を絞って、いろんな人に相談して、

あーでもない、こーでもない

とやってるそばで、この発言。

だから、できることを提案してるのに、

やりたくないならやりたくないと言えばいいだけのことを、

なにか理由をつけて全否定。

こういうので気持ちがどどーんと落ち込んだな。

 

それで、自分では何も決めないでいて。

何か不都合があると、

「よしこが○○すればいいっていうからやった」

(だから僕は悪くない)

「よしこが△△しろっていうからした」

(だから責任はよしこがとれ)

一事が万事無責任。

そういう父によくムカついた。

決められないのに、

私が決めたことがうまくいかないと、責める。

父が言う「しょうがない」は

「お前のせいだ」に聞こえて落ち込んだ。

 

そんな関係から学んだことは。

人に依存してる限り、自分の望む人生の幸せはない。

自分ができることを積み重ねて、

もうちょっとこうすれば、

もう少しだけ頑張ってみれば、

と希望をもって自分の望みに責任をもって立ち向かうこと。

自分の可能性を信じて、

自分の希望を少しずつかなえ続けること。

やりたいことをあきらめる理由を探してる暇があったら、

やりたいことをやる方法を小さなできることを少しずつ試してみること。

たまには、どかーんと離れてみること。

(もちろんそのためにいろいろな手はずを整えて)

否定するのは簡単だけど、

肯定することを続けることは困難が多いこと。

滑って転んでも、自分を信じていれば、

傷は癒えて、望みは少しずつ叶うこと。

一気にうまくいかせようとしないこと。

わからないくらい小さく徐々に変えてみること。

そんなこと。

でも、これは、わたしのやり方で。

これが妹次女では、またちょっと違うし。

妹三女では、大きく違うし、

父には、当てはまらないことも多いし。

学びは家族ひとりひとり違うんだということ。

それはそれでいいのだということ。

自分を押し売りしないこと。

(すぐ押し売りしたくなる)