昨日のブログ、認知症両親の介護 殺意を抱くとき(http://ameblo.jp/kosyokosyokosyo/entry-12178159348.html)で、殺意を抱いたのは父にでした。

じゃ、母はどうなの?

 

父は子どものころからわかりあえないと思っていたのに対して、母は私の気持ちは理解してくれないけど、母の気持ちはわかってあげたいと思っていました。

父が家庭よりも仕事を優先していたので、母は父や自分の親や兄弟に常にこころを砕く人。

長女のわたしに、小学1年生から家事を仕込み小学3年生で一通りできるようになったわたし。妹たちには、そんなことは言わない母でした。

でも、母自身が自分がそのように育てられたのだといつもいうので、そんなもんか、損したなー長女で、と。

母の子どものころは、親が稼ぐのに必死で自分は遊ぶ暇もなく、兄弟姉妹の面倒も、家事も全部ひとりでするしかなかった戦後の厳しい時期だったよう。

母が長女で苦労したという話を聞かされて、すっかり長女とはそういうものだと洗脳され、母に同情する気持ちがわいていました。母より自分はましだから。

同性の目は厳しいものですが、母は突っ込みどころがないほどわたしからみれば完璧な人。

できないことはないんじゃないかって感じでした。

それに比べて自分は、。。。。なにもできない、と落ち込みます。

母の頑張りようは自分比で、超人の域。

あんなに頑張って家族ひとりひとりを支えてきた母、これから人生の集大成を楽しみながら暮らせるんだろうと勝手に私は思い込んでいました。

が、現実は非なり。

凄い母は、いろんなことがわからなくなって、できなくなって。

悲しみと不安とをプライドで包み隠し。

自分も私たちもごまかそうとしていた日々も長く。

ただただ母はかわいそうと思いました。

楽しむはずだった日々を、私たち姉妹の手でなんとか楽しんでもらおう。

そういう気持ちが沸き上がり。

それは、今もかわらずそうで。

喜ぶ母の笑顔を見たくて一生懸命になりました。

誠心誠意尽くすことを学びました、母から。

父には「死ねばいいのに!」といった同一人物とは思えない言葉ですね。

父と母は、わたしの中で相反するものそのもので。

混沌としたものから感じる人の感情のすべてを見せられるようで。

有り難い存在です。