昨年の今日、2015年6月28日のブログがなかったので、facebookから。
1年前の今日は、こんなだったのか!
もう戻りたくない介護の現実。
facebook 2015/6/28より
原文ままだと読みづらかったのでかなり修正。
このところの両親の朝夕のお助け。一人じゃ無理。
それは、親子だからだと考察。
たとえば、介護のお仕事だと夜勤で認知症も含め高齢者9~20人を1人で担当。
それはかなりの重労働。トイレ介助、おむつ交換も含め1人で。
すごいよ~~~!
だけど家族だとお互い甘えがでる。
そのうえ認知症の両親は次の行動が予測できない。
気づきもしないようなことに、過敏に反応して暴れたりする。
まさか?コレ?!
いわゆる健常者には気にもならないことに。
だから両親それぞれがちょっと布団の上にからだをおこすだけでも、立ち上がる動作だけでも、移動するだけでも、トイレでパンツを脱ぐだけでも、私自身は一動作にびっちり神経を注ぐ。
母はからだの反応が悪くなりつつあり、父は筋力が落ち、寝たきり座ったきりに近い状態になり。
そういう状態に気を配りながらスピーディーに、関節など可動域が狭まって痛がるから、上手にトイレでの脱ぎ着をすること。
今朝。
父がずぶぬれで布団に寝てて、肌掛け布団を巻き込み事故(びしょ濡れ)もちろん枕も。
母は軟便がリハビリパンツ前後にびったり多量に付着。
どう行動するかわからない二人に注意を払いつつ…。
できれば動かないでその場にじっとしておいてほしいのだけど、動くんだ、これが。
僕を先に、私を先に、きれいにしてほしい・・・。(甘え&欲求)
わかるけど、わたしは1人。(現実)
お互い泣きたい状況。
こういうときは、比較的スムーズにできるほうからするけど、今日はどっちだ?
母かな?
おむつ専用ごみ箱、新聞紙、あたたかいタオル、おしりふき、雑巾、着替え一式、洗濯物をとりあえず集めるための巨大ビニルごみ袋を準備し、作業のシミュレーションして、二人に声掛けしながら、時に怒鳴りながら(危険な場合)、泣きながら(やりきれなさに)。
続いて、部屋の床や壁面をきれいに隅々ま拭きとって、臭いもとって、部屋もざっくり掃除して、朝ごはんを介助して、デイサービスへ送り出す。
送り出すまでは戦闘態勢だけど、なるべく愛情をたたえて穏やか介助する努力はする。
送り出したら、掃除と洗濯の繰り返し。
だから、どうしてもわたしの心と体は不安定になりがち。
そんな中でも、こうしたら?ああしたら?っていう自分の理想像に近づきたいという一心でやってる。だから苦しい。なんかツライ。
そこを突き詰め過ぎてるのかな?
あー、自分って不思議だな~。
今日は気力も体力も尽き果てなお踏ん張って私を助けてくれてる妹次女に休んでもらったので、ひとりでやってるのだけど。
そうだなー例えるとこれまでのわたしの人生ひと月分いやふた月くらいの働きが今日半日かもしんない。
たったの半日なんだけど。
だからって息抜きしてないってことはない。
ランチは旦那どのと焼き肉行って、帰りにケーキショップに寄って、自宅で珈琲豆をひいてカフェタイム。
優雅じゃない?
いや、息抜きも頑張ってるかもしれない。
もういつ死んでもいいよ感バリバリ。ははは(^^;
~~~~ここまで。
すごいなー。
もうやれっていわれても、無理。チーン!
洗濯も掃除も完璧だった。
衛生面も完璧だった。
それくらい気を付けないとどちらか感染症で入院なんてなったら、さらなる地獄が待ち構えていたのだ。
そのための最低限の努力。
よく踏ん張ったな。
だけど、それに耐えた両親に感謝を送る。
一緒に頑張ってくれた妹次女にも。
人は一人じゃ生きることができないと。
できないことは、助けてくださいと。
素直にいえばいいのだ。
いろんなことを学び、泣いた分強くなった。
怒り狂った分、そのエネルギーに振り回される恐ろしさも感じた。
ありとあらゆる感情にのみこまれたり。
その中で、親族の死があったり。
生きてること実感せずにいられない。
だから、これからなんでもやってみたいことはする!
楽しいぞ♪