先日書いた『血管性認知症の父、ボケはじめは?(http://ameblo.jp/kosyokosyokosyo/entry-12171733534.html)』に続いて、母編です。
ざっくり書いてみます。
そもそも母が『おかしい!』と最初に気づいたのは私でした。
父が脳卒中を患い職場復帰してしばらくたったころ。
大学を卒業し名古屋の職場に就職して1年目に父が脳卒中で倒れ。
その翌年あたりの帰省時に母の異変に気付きました。
母と二人、ショッピングの帰りのバスで。
いつも母がバス代をまとめて支払っていたので、わたしは母について降りるだけでした。
が。
その日は。
母:バス代二人分でいくらになるか計算して。
私:(?!)あ、うん、320円だよ。
母:じゃお財布から出して払って。
私:(?!)はい。。。
内心、え~~~~うっそぉ~~~~!!!!衝撃!!!
でした。
それから、炊飯器にお米を計量カップで数えながら入れるというのを何度も何度もやり直している母を見かけたり。
(恐ろしくなって扉の影から目だけでのぞいたのを思い出します)
家族の人数分のお箸をそろえることができなくなったり。
料理の味付け、品数、盛り付けが変わったり。
焦げたものがよく出てくるようになったり。
だけど、食べられないってことはない。
鈍い家族とか、現実を受け入れるのが苦手なタイプの方は、気づきません。
(=父、妹三女)
ラジオの操作(=家電の操作)がわからないとよくいうようになったり。
どれも典型的なアルツハイマー型認知症の初期軽度の症状でした。
計算できない、段取りが覚えられない、けれども家族といて家族が困らない程度。
この時点で病院受診して、機能を刺激するようなトレーニングなどを受ければかなり長い間症状を軽度のまま生活に支障ないままに過ごすことが可能だとわたしは思います。
でもね、このとき。
母は「絶対病気じゃない!」といいはって、病院受診拒否でした。
ボケをみるのは精神科の病院と決まっていたころです。
世間体が悪いとか差別されるのでは?とかいろんな不安が母にあったよう。
そりゃそうです、娘の私がいうのもなんだけど、しっかり者で良妻賢母を絵に描いたような母でした。そのプライドは恐ろしいほど高かったのです。
そんな人が、自分を受け入れることは、自分を失うほどのことだったのでしょう。
それから母の症状は緩やかに進行していきました。
この間10年は、初期軽度の症状で下降は緩やかだったと記憶しています。
徐々に徐々に。
そうしてアルツハイマー型認知症が中等度になってくると。
家族が母に対して、困ったと感じることが多発。
服を着替えることが苦手になったり、
書くことが苦痛になったり、
怒りっぽくなったり、
同じものをいくつも買ってきたり、
料理が作れなくなったり、
掃除洗濯などの家事をしなくなったり、
道に迷ったり、
などなど。
このとき、ようやく病院受診できました。
2003年、父と一緒に健康診断に行くという方法で。
ここから2007年ごろまでに、何度も行方不明になりました。
(方向音痴の母ではなかったので、これもアルツハイマーの症状、空間認識が難しくなるです)
警察のお世話に何度もなり、ご近所の優しい方々に支えられました。
介護保険の認定調査を受け要介護2で認知症対応型デイサービス行くようになり、同年末には要介護4の判定となりました。
現在の母は、要介護5アルツハイマー型認知症としては重度です。
トイレ入浴、食事など生活すべてに介助が必要です。
本人の心情としては中等度までは、
自分の変調や何ができないかを理解し、落ち込みます。
なので、周りからいつも叱られてばかりだと、精神的反応で
暴言暴力を引き起こす原因になります。
次第に、病気の感覚が薄れ、
自分は何ができ、何ができないか
周りが大変だ
というような認識がなくなっていきます。
さて、アルツハイマー型認知症にならないために。
生活習慣病にならないこと。
糖尿病、脂質異常症、高血圧症はアルツハイマーのリスクが高まることが証明されています。
きちんとした食生活、過度のアルコール摂取を控え、適度に運動すること。
しかし、もしなったとしても。
症状の進行はゆっくりです。
慌てすぎたり悲観しすぎないことも大切だと母をみていて思います。
結局は、脳の老化なのですから。
自分と向き合い、どう死ぬのか、選択できる時間は十分にある。
(若年性アルツハイマーは除く)
母から学んだことは、たとえ自分がそうなるとしても。
今を後悔しないように、生きたいように全力で生きること。
やりたいことを先延ばしにしないこと。
どんなことも笑いとばしていくこと。
笑う門には福来る!YES!