人によっては重すぎるタイトルでしょうが。
そこんとこ、避けて通らないわたしなのでガンガンいきます、あしからず。
そもそも認知症両親の介護でわたしの最大の悩みは、
命を預かる重さと家族親族の人間関係や妬み僻み。
両親の持病や突発的な病気で、
手術をするのか?
副作用の危険が高い薬を使うのか?使わないのか?
の判断をすること。
両親が判断できないことを判断するのが
長女で主たる介護者のわたしの重責。
いつでも誰かに責任転嫁できる人には、理解できない重い責任です。
「介護については、あなたに任せてるんだから」
「いつもそばにいるあなたにしかわからないと思うから」
とか言っちゃうだけで、
命から逃げ出すことができる家族親族が妬ましい!w
妬ましさマックスのこころの声をお聞かせします(笑)
いいよね!
そんな言葉を投げつける相手がいる人は!
(被害妄想さく裂!w)
あなたのその逃げることができるという幸せは、わたしが耐え忍んで支えてるんだ!(なんつって!w)
わたしがもしも細かいサインを見逃してしまっていたがために、
両親が死んでしまったら、
それはわたしの責任なんだと自分が自分を責めてしまうだろう。
あの時のあれは…もしかして…。
いつも何かがあると、
あとからあとから
「そういえば!」
と思い出してしまうわたし。
後悔しないように、
といつも自問自答してるはずなのに、
不完全極まりない。
完璧なんて目指せないけど、
自分自身への不安や恐れは少なくしたい。
そのために、
自分の思考パターンを変える努力で
ここまでこれたんだ。
でもでも、
両親の死を目前に
逃げ出さない覚悟はしていても、
おろおろするなー。
昨年真剣に考え始めた「看取り」。
それは例えば終活で
エンディングノートに書く欄がある。
延命措置はしますか?
胃ろうしますか?
みたいな感じで。
でも、その状態になるまでの過程があるわけ。
過程や、
その時の環境や、
その現場にいる人の判断で、
書いていたことが守られないということは
よくあることだそう。
相手によっては、
「自分の前で死なれちゃ困る!」
って思いませんか?
(考えたこともない?)
それとも、
「わたしの腕の中で安らかに息を引き取って?!」
(なんて美しい理想だろう☆)
たとえば今施設にいる両親ですが、
もしも自宅に帰宅中だったとして。
父が突然、重篤な状態になりました。
両親のそばにいるのがわたしじゃないとき。
そこにいる人は、すぐにどういう対応するか?できるか?
もしそれが、自分の家族であなた自身だったらって考えられますか?
普通の人はそんなこと考えませんよね。
自分にそんなことが起こるはずがないと思うでしょうね。
でもわたしは考えます。
その状態が救急車を呼ぶ状態であるのかどうか?
え?当然呼ぶに決まってるじゃない?!って思います?
そうですよね、それが普通。
だけどわたしはそういう状況を想像して、
とても悩んでしまうのです。
自宅で死にたいのか、病院で死にたいのか。
今の日本だと、自宅で父が突然死んだら、
家族は、その場にいた人は、警察の取り調べを受ける。
でもでも。
もしも父が自宅で死にたいとエンディングノートに記していたら
(そんなことはなかったのだけれど)
ぴんぴんころりの死に方で願ったりかなったりだよな。とか。
いやいや、待て待て!
一体いつからそこに倒れてるんだ?
どんな可能性があるのか?
気が動転してる人間ていうのは、
何をしでかすかわからないぞ?
などと私の脳内会議が超高速で行われ、
結果私が出す指示に従って
その場の家族は対応。
これまでも何度か経験しているので、そうなる確率は100%。
「お姉ちゃんどうしよう?わたしできない!」
私の判断で書き方は悪いけれど、
両親を殺すことだってできる
といえなくもない。
怖いですねー。怖い。
信じられません。
いろんなことが。
そうしてまた私の脳内会議がはじまったりしてw
その場にいる人がわからないのに、
なんで遠くのわたしが判断しなきゃなんない!
正直イライラ!
とか。
症状によっては、
悩んでるうちに死ぬかもしれない。
寝たきり植物状態かも?
とか想像したら、
今度はそのことについて話し合って決めておくことが必要だな!
「こういう時はどうする?」
って!
しかし実際は。
わたしが調べ行動しても。
話し合ってるつもりなのは私だけで。
その他の家族は、
「お姉ちゃんの指示に従う。文句はない。」
とか言われがち。
わたしがいつもどんな気持ちで、
判断のためにいろんなことを
調べて考えて調べて考えて、
相談してるのかって
考えられないんだろうか?
家族:「怖いから無理!」
…堂々巡り。
というわけで。
今日もわたしは、
「あ!こんなこともあるかもしれない!」
とグーグル先生のお世話になる。
松元的脳内会議の結論
この世の体験はわたしにしかできないっていうのは、事実だと認め受け入れます!
だから?
より理想的で具体的に未来を創造する!
両親それぞれの生き方死に方に向き合い、
自分事として置き換え真剣に考えます。
そしていざというとき、
家族をリードできるよう努めます。
そこんとこ、避けて通らないわたしなのでガンガンいきます、あしからず。
そもそも認知症両親の介護でわたしの最大の悩みは、
命を預かる重さと家族親族の人間関係や妬み僻み。
両親の持病や突発的な病気で、
手術をするのか?
副作用の危険が高い薬を使うのか?使わないのか?
の判断をすること。
両親が判断できないことを判断するのが
長女で主たる介護者のわたしの重責。
いつでも誰かに責任転嫁できる人には、理解できない重い責任です。
「介護については、あなたに任せてるんだから」
「いつもそばにいるあなたにしかわからないと思うから」
とか言っちゃうだけで、
命から逃げ出すことができる家族親族が妬ましい!w
妬ましさマックスのこころの声をお聞かせします(笑)
いいよね!
そんな言葉を投げつける相手がいる人は!
(被害妄想さく裂!w)
あなたのその逃げることができるという幸せは、わたしが耐え忍んで支えてるんだ!(なんつって!w)
わたしがもしも細かいサインを見逃してしまっていたがために、
両親が死んでしまったら、
それはわたしの責任なんだと自分が自分を責めてしまうだろう。
あの時のあれは…もしかして…。
いつも何かがあると、
あとからあとから
「そういえば!」
と思い出してしまうわたし。
後悔しないように、
といつも自問自答してるはずなのに、
不完全極まりない。
完璧なんて目指せないけど、
自分自身への不安や恐れは少なくしたい。
そのために、
自分の思考パターンを変える努力で
ここまでこれたんだ。
でもでも、
両親の死を目前に
逃げ出さない覚悟はしていても、
おろおろするなー。
昨年真剣に考え始めた「看取り」。
それは例えば終活で
エンディングノートに書く欄がある。
延命措置はしますか?
胃ろうしますか?
みたいな感じで。
でも、その状態になるまでの過程があるわけ。
過程や、
その時の環境や、
その現場にいる人の判断で、
書いていたことが守られないということは
よくあることだそう。
相手によっては、
「自分の前で死なれちゃ困る!」
って思いませんか?
(考えたこともない?)
それとも、
「わたしの腕の中で安らかに息を引き取って?!」
(なんて美しい理想だろう☆)
たとえば今施設にいる両親ですが、
もしも自宅に帰宅中だったとして。
父が突然、重篤な状態になりました。
両親のそばにいるのがわたしじゃないとき。
そこにいる人は、すぐにどういう対応するか?できるか?
もしそれが、自分の家族であなた自身だったらって考えられますか?
普通の人はそんなこと考えませんよね。
自分にそんなことが起こるはずがないと思うでしょうね。
でもわたしは考えます。
その状態が救急車を呼ぶ状態であるのかどうか?
え?当然呼ぶに決まってるじゃない?!って思います?
そうですよね、それが普通。
だけどわたしはそういう状況を想像して、
とても悩んでしまうのです。
自宅で死にたいのか、病院で死にたいのか。
今の日本だと、自宅で父が突然死んだら、
家族は、その場にいた人は、警察の取り調べを受ける。
でもでも。
もしも父が自宅で死にたいとエンディングノートに記していたら
(そんなことはなかったのだけれど)
ぴんぴんころりの死に方で願ったりかなったりだよな。とか。
いやいや、待て待て!
一体いつからそこに倒れてるんだ?
どんな可能性があるのか?
気が動転してる人間ていうのは、
何をしでかすかわからないぞ?
などと私の脳内会議が超高速で行われ、
結果私が出す指示に従って
その場の家族は対応。
これまでも何度か経験しているので、そうなる確率は100%。
「お姉ちゃんどうしよう?わたしできない!」
私の判断で書き方は悪いけれど、
両親を殺すことだってできる
といえなくもない。
怖いですねー。怖い。
信じられません。
いろんなことが。
そうしてまた私の脳内会議がはじまったりしてw
その場にいる人がわからないのに、
なんで遠くのわたしが判断しなきゃなんない!
正直イライラ!
とか。
症状によっては、
悩んでるうちに死ぬかもしれない。
寝たきり植物状態かも?
とか想像したら、
今度はそのことについて話し合って決めておくことが必要だな!
「こういう時はどうする?」
って!
しかし実際は。
わたしが調べ行動しても。
話し合ってるつもりなのは私だけで。
その他の家族は、
「お姉ちゃんの指示に従う。文句はない。」
とか言われがち。
わたしがいつもどんな気持ちで、
判断のためにいろんなことを
調べて考えて調べて考えて、
相談してるのかって
考えられないんだろうか?
家族:「怖いから無理!」
…堂々巡り。
というわけで。
今日もわたしは、
「あ!こんなこともあるかもしれない!」
とグーグル先生のお世話になる。
松元的脳内会議の結論
この世の体験はわたしにしかできないっていうのは、事実だと認め受け入れます!
だから?
より理想的で具体的に未来を創造する!
両親それぞれの生き方死に方に向き合い、
自分事として置き換え真剣に考えます。
そしていざというとき、
家族をリードできるよう努めます。