認知症両親とどうやってコミュニケーションをとってきたかを書いておく2回目を書こうとして書きながら趣旨がずれてきた感じがしたので、タイトルを変更しちゃう。
わたしのやり方は覚悟のいるやり方であるようで、中途半端な気持ちでは心が折れるかもしれません。よく妹三女に「わかるけどできない!」と言われました。わたしにしてみれば、「新しいことを試すのが怖い」と聞こえましたけど。
自分の想いをうまく表現できなくて理解してもらえないことが多いのですが、というか切羽詰まりすぎて自分が表現の仕方を考えるというところまで余裕がなかったのですが、別に理解してもらえなくても、わたしの生き方なのでやりたいようにやりたい!と思ってた。
そうしたらある本に、いたく共感した部分や言葉がいくつもありました。
「私がどうしたいかに興味を持ってくれない。頑張りすぎなければ一歩も前に進めない。無理しないなんて無理。サポートが欲しい気持ちとひとりで何とかしたい気持ち、その心の葛藤が介護生活の苦痛!」とか「1日が24分」「可能性の価値を否定する人」とか。
私の場合は。
観察してインプットされた情報から、様々な可能性が見えているのに、試したり引き出したりする新たな時間を、掃除洗濯食事などの家事に割かなければならず、体力と気力が続かず、という葛藤の毎日。
「完璧主義を捨てろ!」と言われても、自分ではとっくに捨ててるんだ!という認識の違い。
最低限のレベルをどんどん下げても下げても、追いつかない作業。
疲労で絶望してくる。
絶望を乗り越える根性は、命を尊ぶ気持ちで保たれていた。
それと音楽。
音楽を聴いていれば、作業を進める手を休めなくてすんだ。
さて。1回目はこちら。
http://ameblo.jp/kosyokosyokosyo/entry-12150969733.html
「相手の気持ち、状況を想像して、考える」ことと、「相手と自分を観察する目を養う」ことを書きました。
これは日々の積み重ねでお互いを知るという作業。知ってるつもりで接しても、それはあくまで「つもり」。事実を事実と受け入れる訓練をしていきます。
その時々で様々な感情がお互いに入り乱れるかもしれませんが、それも大事な過程なので感じつくすくらいの覚悟を持ちましょう。感情を昇華する、そんな感じです。
嬉しいことも悲しいことも、良いことと思えることも悪いと思えることも、どちらも大切に。
それぞれは、対比に過ぎないから。
しれっと書いても実際は泥沼。
深みにはまる~~~~!
どんどんはまりながらぶつかり合ってぶつけ合って、自分を通しながら必死でこちらに抵抗する相手の主張のその先を読み込んでいく気持ち。
お互い曲げられない主張のはざまで妥協点を探していく。
それができないをできるに変えていく原動力。
こういうことが感情的にならずに、淡々と出きれば、最高。
わたしはできないタイプだった。
これまで両親とは事なかれで、自分を曲げて両親に迎合していたから、もう大変で辛くてしょうがなかった。
自分の持つものがなにもかも消耗していって、死にたいと思う日々になってようやく光が見えてきたのかなと今は思うけど。
自分と相手は親子でも全然違うんだとか、相手を尊敬する気持ち、というのを身をもって知るというか、素直にそう思えるというか、そんなような姿勢?心持ち?でいることはなかなかできそうでできないものなのだと実感するというか。
気持ちの問題。それが最大!
だから、介護というのは、自身の生き方そのものが現れるのだと思います。
私=混沌。
自分の無力を思い知る。
だからコミュニケーションは大切。
わたしのやり方は覚悟のいるやり方であるようで、中途半端な気持ちでは心が折れるかもしれません。よく妹三女に「わかるけどできない!」と言われました。わたしにしてみれば、「新しいことを試すのが怖い」と聞こえましたけど。
自分の想いをうまく表現できなくて理解してもらえないことが多いのですが、というか切羽詰まりすぎて自分が表現の仕方を考えるというところまで余裕がなかったのですが、別に理解してもらえなくても、わたしの生き方なのでやりたいようにやりたい!と思ってた。
そうしたらある本に、いたく共感した部分や言葉がいくつもありました。
「私がどうしたいかに興味を持ってくれない。頑張りすぎなければ一歩も前に進めない。無理しないなんて無理。サポートが欲しい気持ちとひとりで何とかしたい気持ち、その心の葛藤が介護生活の苦痛!」とか「1日が24分」「可能性の価値を否定する人」とか。
私の場合は。
観察してインプットされた情報から、様々な可能性が見えているのに、試したり引き出したりする新たな時間を、掃除洗濯食事などの家事に割かなければならず、体力と気力が続かず、という葛藤の毎日。
「完璧主義を捨てろ!」と言われても、自分ではとっくに捨ててるんだ!という認識の違い。
最低限のレベルをどんどん下げても下げても、追いつかない作業。
疲労で絶望してくる。
絶望を乗り越える根性は、命を尊ぶ気持ちで保たれていた。
それと音楽。
音楽を聴いていれば、作業を進める手を休めなくてすんだ。
さて。1回目はこちら。
http://ameblo.jp/kosyokosyokosyo/entry-12150969733.html
「相手の気持ち、状況を想像して、考える」ことと、「相手と自分を観察する目を養う」ことを書きました。
これは日々の積み重ねでお互いを知るという作業。知ってるつもりで接しても、それはあくまで「つもり」。事実を事実と受け入れる訓練をしていきます。
その時々で様々な感情がお互いに入り乱れるかもしれませんが、それも大事な過程なので感じつくすくらいの覚悟を持ちましょう。感情を昇華する、そんな感じです。
嬉しいことも悲しいことも、良いことと思えることも悪いと思えることも、どちらも大切に。
それぞれは、対比に過ぎないから。
しれっと書いても実際は泥沼。
深みにはまる~~~~!
どんどんはまりながらぶつかり合ってぶつけ合って、自分を通しながら必死でこちらに抵抗する相手の主張のその先を読み込んでいく気持ち。
お互い曲げられない主張のはざまで妥協点を探していく。
それができないをできるに変えていく原動力。
こういうことが感情的にならずに、淡々と出きれば、最高。
わたしはできないタイプだった。
これまで両親とは事なかれで、自分を曲げて両親に迎合していたから、もう大変で辛くてしょうがなかった。
自分の持つものがなにもかも消耗していって、死にたいと思う日々になってようやく光が見えてきたのかなと今は思うけど。
自分と相手は親子でも全然違うんだとか、相手を尊敬する気持ち、というのを身をもって知るというか、素直にそう思えるというか、そんなような姿勢?心持ち?でいることはなかなかできそうでできないものなのだと実感するというか。
気持ちの問題。それが最大!
だから、介護というのは、自身の生き方そのものが現れるのだと思います。
私=混沌。
自分の無力を思い知る。
だからコミュニケーションは大切。