母と自分を振り返って書くシリーズ。
認知症の両親と過ごす日々は感情をこれでもかってくらいに揺さぶられてしんどくて仕方ない期間が長かったわたし。
そうして親から受けた愛情を忘れ去って、憎悪やなんかでこころが埋め尽くされて。
そんな親も自分も許せないとかなっちゃって自虐に走って周りを巻き込み迷惑千万な悲劇のヒロインぶっちゃったり。
「あたし、かわいそうなんですぅ!誰かかわいそうって認めてくださ~いっ!」的な。
なんて嫌なヤツ。
めんどくさっ!
なんて今は思っても、当時は必死。
ほんとに幼児に戻ったみたいに親の前でダダこねるの図だったな。
で、ちょっとだけ経験から視点が広がり始めたのがここらあたりだったのかな?
2008年5月28日の日記から引用。
最近、認知症の母を見ていたとき、以前と違った感じ方をしてる自分に気付いた。
そういう心理段階の変化があると知ってはいたものの、無理だよ~って思ってて…。
自分は、傲慢だったんだな、すごーーーーく。
ちょっと謙虚っていうか、母の身になってみたらというか、強がりをやめたら…(誰に?)、もっと違う感じがしてきた。
介護してるとかお世話してるとかいうのでなく、いまこのひとときをいっしょに生きているんだなぁっていう当たり前の事実を感じられる気がした…。
嫌なことも分からないことも混乱することもイラッとすることも…あるがまま…で生きているのがいいのかなぁ。
母の人生を遡って感じてみて、初めて母を少しわかったような気がした。
なるべくいっしょに笑って生きていたいな。
つまり、「相手の立場になってみる、相手の気持ちになってみる」ということ。
自分も混乱してるけど、母はもっと前からずっと混乱して、自分と闘ってきたのかな?
母みたいに良妻賢母のお手本みたいな人が、壊れていく自分を認めることはどういうことだったんだろうか?
介護認定を受け、介護サービスを受けるようになった母は、つまり、自分との闘いを断念して折れてしまっていたのではないか?
あんなに、強かった母が敗北宣言したのと同じなのではないか?
などと、様々な「もしかしたら」が浮かんでくる。
そういう、母の気持ちを考えてやってきただろうか?
すぐに自分の気持ちや妹たちの気持ちや父の気持ちを優先して、病人(認知症は病気)=母は家族のいうことを聞くべきなんて奢った考えでいたんだ。
母の気持ちを尊重して、母の生き方を尊重して、なんて言いながら、家族のための母の生き方はこれでしょって押し付けてたんだ。
とかーーーー。
混乱するってほんとに怖いな。
他人事なら思わないようなことを自分事となると途端に冷静さを失って暴走。
自分も家族も深くえぐるように傷つけあう。
修羅場は続くよ、いつまでも。
な~んて。
深刻さなんて何も生まない。
大事なことは、どんなことも笑いに変換できる心のボタンをもつこと。
今になって、振り返って、ようやくわかってきてるのかも。
暗闇に灯火