日記を振り返ってみるシリーズです。

そのころ母は若年性アルツハイマー。
(現在母は生きてます!)
当時の日記を引用して今の自分が感じることを書きます。


一部引用。

2008年2月12日
認知症って勿論本人も不安定で不安でいっぱい。
家族は病気といわれても事実をなかなか受け入れられないし、本人に対しても自分に対しても家族に対しても感情のコントロールが難しい。
で母は…今、要介護4。
さすがに半年で2→4になった時はショックだった。
体はどこも悪くないのに。
どんなにハードな日々でも物静かで控え目良妻賢母のお手本みたいだった母が今は一日中父を質問攻めで答えないと怒るんだら!
びっくりするやらおかしいやら。


ここまで。


母は、自分がおかしい(病気?!まさか自分が?!怖い!!!!!!)と思っていたのではないかと思います。だけど、それを認められない認めたくない、恐怖心がプライドがあったのだろうと思います。だって、まだ50代になったばかりの頃から少しずつ少しずつおかしくなっていたのです。

最初に、彼女の異変に気付いたのは私でした。
就職で親元を離れ、一人暮らしを始めて1年たったころだったように思います。
電話で喋っても上の空になったり、
母の手料理のレシピを聞いても、「ちょっと○○(妹の次女か三女)にかわるわ。」と電話口を離れてしまう。
帰省した時、一緒に出掛けて二人分のバス代の計算がもしかしてできない?って気になったり。
よくよく注意しないとわからないところばかりでした。
本人も気にしていて、とても上手に取り繕っていたのだと今になって思います。

わたしが気づいた異変ですが、同居している父、妹次女、妹三女は気づいていない様子です。
家族に質問しても、一緒に暮らしているから気にならないのか、自分に影響あることではないので気づかないのか?
すごく気になって、母の様子を逐一観察して、不審なところを家族にきいても、「しつこい!お母さんは大丈夫だから」と誰も相手にしてくれない。。。

当時(わたしが就職したころ1990年代)、ぼけ老人という認知はありましたが、認知症とかアルツハイマーとかいう単語は実家の地域では精神科の専門医でもなかなか認知されていない状況だったのです。

そこから約10年後の日記。
私の話に耳を傾け実感する事実が重なり、妹次女が母の病気を受け入れ、なんとか父と母を説得して病院受診投薬が始まり、介護認定を受けたのが半年前(2007年)だったのです。
まだ私自身も「母」のこれまでのイメージと現実のギャップがすごすぎて、すべて受け入れたくてもなかなか難しいなと感じていたころです。

自分のことも難しいのに、家族それぞれのフォローやサポートを考えてどうしたらいいのか悩みに悩む時期でした。
父は豹変する母に混乱して無視することもあった記憶があります。
途方に暮れた父の姿を見たような気もします。
妹三女は、完全に恐怖心から心を閉ざして仕事に逃げ、両親をサポートするどころか完全無視、下宿人のような暮らしをしていました。


さて現在は、介護保険制度も周知されて、介護にかかわるお仕事にも様々な資格があります。
家族を支えてくれる人はたくさんいます。
当時(2006年ごろ)、私たちを支えてくれる人がどこにいてどうすればいいのか、やっとわかってきた状況でした。
実家の地域に認知症対応型デイサービスというのは3か所ありました。
病院は、まだ心療内科や物忘れ外来なんてのは都会にしかなく、地方では精神科でした。
内科で見てくださる病院もなかったような記憶があります。
保健所で相談しても、精神科を紹介されました。
まだしっかりした部分の多い母には、あまりにも残酷でした。


とはいっても、母の症状がどういう風に変化するのか想像できなく、専門書なども少なかったのでどう対応していいかもわからないことが多く、母も自分たちも大混乱な時期でした。

その詳細も今後紹介してまいります。
日々観察、考察、どうしたらいいのか?どうしたいか?自問自答の日々が続きます。