今年の前半は、わたしにとって、体力的にも精神的にも、究極の時間が多くありました。


これまでの集大成みたいに、自分が逃げたいと思っていたことが否応なしに全部どーんと襲ってきたみたいな感じです。


苦手だけど得意で、得意だけど苦手なことっていうわけのわかんない状態がひっくるめられてがーーーーっみたいな。


好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、もとは一つ。


そういうことを実感させられるといったらいいのか?




どうして自分は生きているのだろう?


なぜ生まれてきたのだろう?



と考えたことはありますか?


わたしは、小学生になる前からそんなことを思う変な子どもでした。




これまでの自分が生きてきた道のりを振り返って自分はどうしたいんだろう?なんて疑問を投げかけても全然わからなくて。


自分の人生を親のせいにして、言い訳ばかりしていたのですよね。


そう思ったのは、こちら のブログ。



自分の考え方に親や祖父母からの言いつけや体罰が大きく影響してるのは、納得してる。


それのどこが?というのも徐々に突き止めて受け入れようとしていたり、受け入れられたりしてる。(現在進行形)



私という人は、どうしてか自分でやりきるという使命でももってるんじゃないか?ってほど、人を頼って失敗ばかりする。


教えを乞うならその道のプロのトップに聞け。


とか思いましたが。


平凡なわたしなんぞがそんな方に教えをいただくほどの金銭的時間的余裕もつてもないよ。ってあきらめちゃう。


もとより、そんな人とは生まれも育ちも学力も根性も違いすぎてついていけないかもとか。


自分の直感でこの人くらいでどうよ?なんて妥協した時点でもう間違ってるとしかいいようがないんだけど。


やっぱり自分が納得いく答えをつかむヒントすらもらえない。


そんなこんなで。


母の病気発症から、なんでも自分で調べて、体験して、試行錯誤して、妥協案や、最善案を探って、やってこなくちゃならなかった。


相談できる人が身近にいなかった。


相談はしましたよ。


だけど、みんな体験したことないから、テキトーなんですよ。


なんのヒントにもならない情報すらつかめない。


挙句、母の病気で手をこまねいてるといって責められるんだから。(絶望)




自分も母も家族も納得できる方法じゃないものは受け入れられないと頑なに思っていて。


それは、プライドというか、信条というか。


自分たちにとって優しさじゃないことは、受け入れないと決めたというか。


こっちが選ばれるのを待ってたら死んじゃう!


こっちが選ぶんだ!


なーんて。



そういう道のりを歩いたのが両親の介護。




自分というものがないと、介護なんて自分らしく人間らしくできないんだと思った。


生き方が決まってる人定まってる人は、たとえ親の介護が茨の道でも、迷いがあまりないと思う。


わたしはいろんなことがあんまりにも辛すぎて、自分だけ死にたいと思ったことあった。


自分が生きている意味が見いだせなくなってばかりいた。




そうやって、自分を見つめてきたから、親のこと家族のことを考えながら歩んできたから、エンディングノートを書いてみたいと思った。


すらすら書けるんじゃないかな?なんて淡い期待はすぐに裏切られたけど。



若ければ若いほど、難しいかもな。


記録的な事柄なら調べればかけるけど。


自分の後始末について、考えるんだもの。


よほど決心できた人じゃないと、まっとうに書ききることは難しいなって思った。



だから、終活ワークショップに参加した。


参加した終活ワークショップのホームページ




エンディングノートを選ぶこと、難しい。


だって自分のことがよくわかってないから。



厚すぎても書ける気がしないし。


薄すぎたら、なんの面白みもないし。


例えエンディングノートでも面白みは必要じゃないですか?って思う自分て変だな。




わたしっていつも緊張しててゆとりがない人だったんだけど。


介護生活で、笑いすぎるし泣きすぎるし感情がどんどん爆発させられるようになった。


子どもの頃できなかったことを、してたけど無視されてたことを、両親に見せつけたかったのかな?



親は無視してたつもりはないんだけど、わたしのことが理解できないって思ってたそう。


今も父親には、お前のいうことがわからないって言われる。



人は、ひとりひとり違うから。


親子だって違うから。


それでいいんだよね。



わたしのために、エンディングノート的なことを考えることすら拒否する両親なんですが。


それを受け入れると決心して。


嫌で嫌でたまらないながらも、実際行動し始めたら、受け入れられるようになり。


それが、わたしに必要なことだったのか?って思うこともある。


だから、自分ができることは自分でして。


なるべくなら人さまにあまり迷惑をかけないで、人さまの大切な時間を奪わないで生きて死ねたらいいと願うんですな。





終活しはじめて、エンディングノートを書くワークショップに参加できて、自分の方向が見えてきた気がするんですが。


あくまで方向だけ。


何するの?はいまだ不明。




ただ、新しい人間関係ができて、それは祝福なのですよね。


自分が考えてることと似たようなことを考えてる人に出会うには、自分が興味ある場所に出かけてみなくては出会えない。


ネットはその大いなるきっかけを作ってくれる。


今回は、自分の決意が大きかったので、さらなるご褒美があったと感じています。


ネットで知って、リアルであって、さらにネットで知って、リアルにつながるという。



そう!わたしはこういう人の話を聞きたかったんです!


わたしの人生にヒントを与え、さらには行動の勇気を与えてくれる人たち。


仲間が欲しかったんだ!


全然違う人生を歩んでる人たちと出会ってインスパイアされたかった。




つまり、わたしはなぜいきてるんですか?っていうと。


共感してくれたり、ともに歩んでくれたり、ともに歩んでみたり、そんな人と出会って話たいのかな。


自分の力で、個性を活かして、今を見つめて、先を考えてる人を感じて生きたいのかな。


そういうことがいまのわたしの答えなのかな。