母の母、祖母が亡くなり、本日が14日目。
本日は、二七日の供養の当番が両親だったので、代理のわたしと妹次女とで田舎のお寺に出かけました。
この二七日の読み方ですが、四十九日までの追悼供養とともに書いてみます。
故人が亡くなった日が命日。
初七日(しょなぬか) 「ぬ」は「の」ということもあります。 命日から7日目。
二七日(ふたなぬか) 命日から14日目。
三七日(みなぬか) 命日から21日目。
四七日(よなぬか) 命日から28日目。
五七日(ごなぬか)・三十五日(さんじゅうごにち) 命日から35日目。
六七日(むなぬか) 命日から42日目。
七七日(なななぬか)・四十九日(しじゅうくにち) 命日から49日目。
百か日(ひゃっかにち) 命日から100日目。
現在は、葬儀当日に初七日、四十九日までをまとめて行うことも多いと聞きます。
が。
両親の田舎では、まとめて行うこともなく、従来通りを家族、親族、ご近所の方々と行うのです。
そこに、両親の代理出席の要望がでるわけで。
県内在住は、出席必須というような暗黙の了解があるようです。
一昨年の父の母=祖母の時もそうだったんですね、容赦なく。
とはいえ、面倒だし、そういうことに慣れていない上に、初体験ばかり。
できれば、回避したくてしょうがない。
だけど、持ち前の好奇心がある。
そういう風習って全然馴染みがないので、逆に興味がわくというか。
こういう行事に出席する同世代、皆無。
だから、『そこのお若いの!』とか、『若者』扱いしていただける貴重な機会です。
っていうか、優しくいろんなことを教えていただけて、気持ちいいです。
仕事場では教える立場とか、現役バリバリ世代とかですが。
立場逆転しますから、そこがまた新鮮。
父方の祖母も母方の祖母も浄土真宗本願寺派なのですが、そこから先の○○派というのが違いまして。
お坊様のご衣裳もお経の抑揚など、微妙に違います。
そういうのも、おもしろい。
で、父方の祖母の時は、父の実家で追悼供養を行いました。
今回母方の祖母は、お寺であります。
供養毎に当番があるとか、お供えの用意の仕方だとか、いろいろあるんですねぇ。
お寺ですので、お坊様の独壇場(という言い方がしっくりくるご住職)で、今日の二七日のお経は、参加者全員に「浄土真宗本願寺派日常勤行聖典」という冊子が配られまして、その指定されたページの「しんじんのうた」というところをお坊様と一緒に読むという形でした。
『読み方や音を間違えてもいいから、大きな声で』という指示もあり、不思議な空間が出現した感じ。
そういえば私が小学校に上がる前の頃、祖父母と朝夕のお勤めに一緒にお寺にゆき、地域の門下の方々が集い、参加者はお経を暗記していてみなで読経するという風習があったのを思い出しました。
古き良き時代を感じるとでもいうのか。
いつもは、聞くだけのお経も、自分たちも唱えるとなると、意識が変わります。
そうして、七日ごとの供養で、故人との距離感が自然といいものになっていくような感じも受けます。
お寺での供養のあとは、母の実家で、叔父夫婦と私と妹次女と父方の叔母と6人で昼食とお茶をしながら昔話に花が咲きました。
そういう昔話をそれぞれを知る親族と語り合うというのも、お互いへの思いやりが生まれたり、その人の考えや気持ちが浮かび上がって、相互扶助の自然な形が出来上がっていくんだなーと感じました。
で、先だっての葬儀でやだなーっていう叔母の本心を聞き出すことができたし、こちらもやんわり感じた事や言いたかったことを話題にできて、いいこと尽くしでした。
帰りに、父方の叔母の義母(交流がある)のお手製おかずをたんまりいただき、うっほうほに嬉しく!
面倒なことにも、なにかを得ようという貪欲さを持つことで、たくさんの学びが生まれて有難いことでございました。
物事にはひとつの受け取り方だけでなく、いろんな面があるということですねー、ほんまに!