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番組の内容の記録を前のブログに書きました。

 

じゃ、そこからどうなん?ってことを書いてみようかな。

 

 

この老衰死についての番組は、私の知りたかったことにひとつのこたえとなるようなものでした。

 

 

 

ふつうに生活してて、老衰死ってどんなん?

 

とか実際人はどうやって死んでいくの?

 

それを看取る医師や看護師や家族はどうしているの?

 

とか、その時どう考えたり受け止めたりしているの?

 

って疑問に思うけど、実際ほぼというかまず見ることはできないし、聞く機会というのも極端に少ないかないかじゃないかしら?

 

ふつうの人は、疑問にすら思わないのものなのか?

 

や、ふつうの人って誰?

 

でね、自分は両親が認知症だから、結局すべての判断を自分がしなくてはいけない場面がほとんどで。

 

 

 

父はまだ自分の嫌なことははっきりと言うことができるけど、母は自分の気持ちや状態を話せないのだから、そこをくみ取ってあげなくちゃって思う。

 

いろんな問いを聞き方をかえて話して、その時のこたえ方やからだの緊張の感じとかあらゆるところを観察してつぶさに読みとっていくこと。

 

これが想像以上に神経使うの~~~。

 

わたしはおっちょこちょいの早とちりのずぼらタイプなんで。

 

そうやって、母の気持ちや状態を読み取って、それをわたしが翻訳するみたいに他の人たちに伝えていく。

 

今々をできるだけ快適に過ごせるように手助けできたら嬉しい。

 

そのためには、疑問に思って聞いてわかること、調べてわかることは、どんどん行動におこしていこうとようやく素直に思えて実行できるようになってきつつある自分。

 

そうして、両親がどうしたいのかを知って、

 

わたしはどうしたいのか?

 

そのほかの家族はどうしたいのか?

 

そういうことを、できるだけいい方向ですり合わせてそれぞれの幸福感が高まる日常になったらいい。

 

老衰死の過程をパターンで知ったり、細胞レベルの事実から導き出された結果というものは、わたしの不安の一部を十分解消してくれたんだな。

 

 

 

これまでの自分のあり方でよかったんだと肯定してもらえ安心感を得たような。

 

両親の死に方を考えることは、私にとっては自分の生き方を考えるものであり、そうしてまた自分の死に方を考えられる有り難い機会で。

 

 

 

日常というもの、深いよなー。

 

生活の場で、死と向き合う。

 

 

 

両親には穏やかな死が訪れるよう願ってやまない。

 

老衰死の過程を知ることができ、心構えができてよかった。

 

それが、自分の平穏なしあわせでもある。

 

豊かで実りある生き方。

 

 

そういうのは、事実と向き合い、受け入れていくことの連続なんだろうなー。

 

受け入れられた時、不安が安心になり、不足感が充足感になるような気がする。