両親の介護というものは、年々テーマが変わり、そのテーマごとにディープさが半端ないと感じるようになりました。
認知症というのは、まぁざっくり病気というくくりと、老化というくくりじゃないかと思うんです。
そうして、そこと向き合うということは、自分と向き合うということです。
別に向き合わずとも、死は流れに沿って訪れるものでありましょう。
『死』というものを意識すると、自分と向き合うしかなくなる気がします。
しかーし。
これまでのわたしは、なるべく自分と向き合いたいけど向き合いたくないと思っていたのですよね。
生まれた時から、跡取り息子ではなく、女であったと祖母に1対1で言われ続けたのですから。
自己卑下はなはだしく、自己肯定感ゼロ~(NEWSZERO風で!)
母は女しか産めない嫁だ役立たずだと言われ続け、自分の親には嫁として立派に勤めるよう叱咤されるばかり。
そんな長女の母は、自分の立場の役目(長女とか嫁とか)だけの生き方で。
長男の父は、甘やかされた自分という自覚なしに、なんでもやりたいことしかしたくない生き方で。
そんな両親のもとのわたしはアンバランスで繊細
自分と向き合いたいけど、トラウマが強すぎて、向き合うのが怖くて…。
結果。
自分を偽装してきたなーって思う。
だから、どんな生き方がしたいか?とか、どんな仕事したいかとか?何がやりたいか?ってことがわかんない人になっちゃってた。
重症…。
そんな状況で、だけど長女の自覚というか役割だけは植え付けられて責任逃れできない体質になってた私が介護に突入。
あ~~~真っ暗闇~~~~~。
漆黒の闇を、明かりもなく、恐怖に震えながら、前に進んだ日々。
実際は、前も後ろもわかんなくて、ぐるぐるしてただけともいう。
でさー。
今、思うのは。
これから自分の人生を生きるんだったら。
ちゃんと自分と向き合って、人とも向き合わなくちゃなんだなーってこと。
自分と向き合って、自分を知ることが、生きてる上で大事なことみたいな気がする。
何かを始めるときの、軸が自分。
自分を自分が知ることがいちばん難しくって、でも大切なことなんだなーって。
じゃないと何もはじまらないというか、すごろくよろしく、はじめても振り出しにもどってばっか的。
できれば、ほんの爪先くらいでも精神的に成長したい☆
が、なかなかぐだぐだな自分。
だけど、こつこつとちょっとずつの自分を信じる
いまここで息してる自分を信じる=生きてるな♪
そうして、両親も。
この夏から、これまでたぶん自分では想像してもいなかったような環境と場所で生きてる。
父、入院中。リハビリ病棟でリハビリ中。
母、施設入所中。一人ぼっちで誰も自分のことに興味持ってくれない感じで思いも要望も伝えられないけど、それでも頑張る。
『人』ってひとりひとり個性があってちがうものでしょ?
『認知症』になると、その個性が、環境でものすごく増幅されたりして、違いも千差万別で、えげつないのから思わず微笑んじゃったり涙したりするようなのまで、すごいんだ!
それなのに、ひとつの小さな箱や枠に無理やり押し込められて窮屈で怖くてどうしたらいかわからなくて、地獄に感じることもあったりするんじゃないだろうか?
そういうところに思いを巡らすでもなく、淡々と作業を進める人々も多い。
お互い不幸じゃないかな?
ほんとは、幸せに感じながら同じ時と空間を過ごすことを選択できるのに。
かく言うわたしは、地獄も天国も両方選択してたか。
気分で。
両親それぞれが、ちっとでも、穏やかに時を過ごしてくれてることを願おう。
で、これからです。
両親の今後。
すっかりわたしの手の中なんですなー。
わたしは、どうしたいのか?
できれば、自宅で両親を最後まで過ごさせてあげたいとは思う。
だけど、わたし一人では、精神的にも体力的にも、無理。
たった数カ月でギブだったもの。
それも妹次女に毎日支えられて。
じゃぁ、どうしたらいいんだろう?
ほんとに施設しか無理なのかな?
自宅で看取ることはできないのだろうか?
奥の手とか?
一緒に考えてくれる人いないかなぁ?
自分だけでは、堂々巡り。
でも、もし、何か方法があれば。
この超高齢社会でモデルケースになるんじゃなかろうか?
あーなんて夢のような話なんだろう…。
だから現実的になってって言われるのさ、妹たちに。
でも、何か納得できないんだよなー。
施設を見過ぎてしまったのだろうか?
期待が大き過ぎるのだろうか?
最低限の文化的でなんとかな憲法で保障された人権ある老後のひととき。
堂々巡りがすぎました。