ちょっとした問題が起きた時に、
面倒だな、とか
嫌だなとか思ってしまうけど
そこで少し立ち止まってみた。
ちょっとした問題が起きた時に、
感情で
受け止めると
面倒とか嫌とか、ネガな気分に支配される。
だから
そこから気持ちをリカバーするのがしんどい。
多分
今までそうやって反応してきた。
でも先日は、
それに客観的に気づいて
問題が起きた時に
事実だけ
を受け止めるように心がけてみた。
こういうことが起きてしまった。
じゃあどうすれば良いか?
感情のリアクションは一旦おいておいて
事実としてどうなのか??
考えることはこれだけ。
すると
起きたことに対する印象が
かなり違った。
ネガな感情が渦巻かないから
特に嫌だと思わないし
誰かも責めない。
だから気持ちがすごく楽だ。
これは結構驚く。
何かの本で
自分のリアクションは自分で決めていて
起きたこと自体には
プラスもマイナスはない
みたいなことが書いてあった。
起きたことを
良いこと
悪いこと
と決めているのは自分だけで
起きたことにもはもともとカラーがないらしい。
うーわ、嫌だな、
マジか、なんだよそれ
という反応は自分で作ったもの。
ちょっと難しいけど
冷静に一歩引いてみると
「その反応はしなくても良いやつ」
ってことになる。
ちょっとした問題が起きた時に
これを思い出せると
かなり気持ちが楽だ。
そうか、あれだ、やってみよう
と思い立ち
よーく自分を観察できれば。
過去の自分のリアクションを思い返してみると
確かに
パニックになって、相手を責めたりしようとしていた。
そこで
ちょっと待てと。
一旦この気持ちのリアクションをやめてみよう。
と考えてみると、
面白かったのは
「意外と腹が立たないという自分」
の発見だった。
このことで
腹を立てる必要はない。
がっかりする必要もない。
自分でこの感情を作り出していたって
こういうことか
と、初めて体感。
それじゃあ
せっかくネガなリアクションをやめられたから
改めて問題を見てみる。
するとシンプル。
問題点はここで
そこだけをなんとかする方法を考えれば良い。
という指針がはっきりわかる。
多分、ネガな感情が渦巻いていると
こんなに冷静に見れないし、
そこに誰かに対する嫌な気持ちも乗っているから
もっとダークな気分だ。
起きたことを
感情に任せてリアクションすると
自分がかなり振り回される。
でも
起きたことを
事実ベースで捉えると
自分は意外と振り回されない。
今までできそうで
できなかった体験。
これをいつでもできるようにしていくと
余計な疲れがなくなっていく気がする。
普段の生活で
何か起きたことに対して
ネガな反応をしていたのは
間違いなく自作自演っぽい。
自分で、自ら
それに対して
いやです、という反応をします
と決めたってことだ。
これが良くないんだな。
そんなに大騒ぎしないで
もっと気持ちを落ち着かせて
フラットに反応する。
そうすれば
感情に振り回されないから
無駄な疲れがない。
シンプルに明解な対処ができる。
いちいち自分で作り上げたネガな感情に振り回されていたら
体がもたない。
逆に、
無理に
これはチャンスだ
みたいなポジティブな反応をする必要もなくて、
その一歩手前の
フラットに受け止める
ということが
自分にはあっている気がする。
事実を、そのままに受け取る。
ちゃんと考えることができるのは
そこからだ。
とりあえず
何かが起きた時に
ネガな反応をする
という悪習慣をやめてみよう。
そういえば
そんな話をブログに書いたこともあったなぁ。
この時よりは
今の自分が成長していると良いなぁ。
#成長
#リアクション
#問題
仕事をしないとギャラが出ない
フリーランスというのもある。
生活にために
というのももちろんあるんだけど
辛くなる原因は
それだけなのかなぁ
とつらつら考えてみた。
お金がなくなるという不安はあるし
なくなったら嫌だ。
あとフリーランスだから
誰かに言われて仕事をする
というパターンもそんなに多くない。
やりたい、面白いと思える仕事をやっている割合は多くて
リアルに仕事が好きだからやっている
というのもある。
当然その中には、そんなに好きな仕事ではない場合もある。
だから好きなことでも積み重なると辛くはなる。
肉体的か、精神的か
どちらからかしんどくなってきて
もう片方も崩れて
あ、もうダメです
となって倒れるのがパターンだ。
趣味とか、オフとか
やれば良いじゃん
ということなんだけど
これが意外とそこに時間を割かない。
割けない、
んじゃなくて
割かない。
自発的に避けている。
20代の頃の体験から
お金がなくなるという不安はあるし
なくなったら嫌だ
という思いが強いのかもしれない。
それでも最近は、
半日さぼろう
とか
今日はオフにしよう
とできる日が増えてきた。
側から見ると
全然そうは見えていないようで
ずーっと仕事してるじゃん
と指摘されるんだけど、
自分としては
20、30代の頃よりは
バランスが取れてきたつもりだ。
それでもだいぶアンバランスだけど。
それはそれとして
なんで忙しい=辛いのか?
好きなことをやっている割合が多いにもかかわらず。
それはワークライフバランスの問題なのか?
んー、ちょっとそれだけない気がする。
思うに、子供の頃は
別に忙しくはなかった。
学生の頃もそう。
親が準備してくれたスケジュールをこなす日々は
言うなれば「消費する側」の人間だった。
それがダメってことじゃなくて
仮に立場で言えば、ということで。
親が作ってくれたご飯 →消費
学校の授業 →消費
塾の授業 →消費
洋服や道具 →消費
言われたまんまでやると
どれもこれもユーザーだ。
だからただひたすらに消費しまくって
飽きたらポイだし、
次に与えられるのを待つばかり。
この期間、少しだけど
「消費する側じゃない」時間がある。
与えてもらった道具を使って
何かを産み出したり。
今だと買ってもらったケータイを使って
自分でユーチューブ動画作るみたいなこと。
するとそれは
消費だけじゃなくて
「産み出す」という要素が出てくる。
すると途端に面白さが変わる。
消費するだけの面白さと
産み出す面白さは別物だと知る。
授業だって、自分で課題を見つけて
テストで100点取るとかすると
消費じゃなくなる。
自分でガンガン進める人って
ここがエンジンの差だと思う。
消費=やらなきゃいけないからエンジン
産み出す=やりたいからエンジン
で、親の庇護の下で
消費生活をしていると
消費生活100%の中で
少しだけ産み出す生活が芽生えてくる。
ここが結構大きなポイントで
ユーザーから、プランナーに
立場が変わる。
すると途端に
大変さ
が変わる。
多分、
学生を終えて
社会へ出ると
生活の中でのユーザーとプランナーの割合が
ガラッと変わるんだ。
学生時代、少なかった産み出す側時間=プランナー時間が
生活の大半を占める。
今度は
消費する側じゃなくて
誰かが消費するものを産み出す側になる。
そうすると
消費する時には求めなかったものが欲しくなって
誰かの役に立っているか?
世の中のためになっているのか?
みたいなことを考えちゃう。
それは多分、
無意識で「産み出す側」に立っているから
なんだろうな。
心のどこかで
誰かの役に立ちたい
価値を産み出したい
と叫んでいるから頑張っちゃう。
その結果が自分を認める要素になったりもするから
結構無視できない。
この「産み出す側」に立った時に求めるものが
結構な麻薬で、
だからついつい頑張っちゃう気もする。
多分こいつが
消費する側にいた時にはなかった疲れで、
産み出す側が忙しくなった時に
辛いと感じる一つの理由なんだろうな。
産みの苦しみ。
サラリーマンだって
主婦業だって
誰かの役に立つために
毎日価値を産み出すこと
をやっている人は
だからこそ辛いと感じるんだろうな。
その辛いは、
誰かのために自分が産み出している価値の証だ。
#価値
#忙しい
#毎日