コソボに入ってから、しばらく時間が過ぎ、
どういう国か、ということも大分掴めてきました。
今回は、
コソボに入る前と、現在のイメージのギャップ
について、少しまとめてみようと思います。
・コソボ紛争
生活の中には、紛争の気配はまったくありません。
復興は加速度を増していて、
街の中に弾痕が、、ということもなければ、
焼けただれたビルが、、ということもありません。
現地の人の間では、紛争の相手国セルビアについては、
皆、顔をしかめる感じで、
感情としては嫌悪感が残っているようですが、
政府レベルでは、歩み寄りが進んでいます。
これは、コソボ、セルビア両国ともに、
将来的なEU加盟を重要な政治経済の目標としており、
新たに国家レベルでの対立が起こると、
こちらがご破談になってしまうからです。
北部の都市ミトロビッツァは、小競り合いで有名な都市で、
小さな事件が起こると、ジャーナリストはこぞって訪れ、
ネタとして取り上げますが、
その他の都市は、その気配がありません。
ジャーナリストや紛争地支援をする団体で賑わう時期は
とうに過ぎ去っていて、
経済復興支援や、社会整備支援をする団体も、
さすがにコソボはそろそろ、、という雰囲気を感じます。
・イスラム教の国
統計上は、コソボに住むアルバニア系住民のほとんどが
イスラム教徒である、ということになっています。
街には、中東風のモスクやミナレットがあります。
ところが、コソボを指して「イスラム教の国」とすると
実際からは、かなりかけ離れたイメージになってしまいます。
生活して見える光景は、
西洋、アメリカ、旧共産圏、の3要素を混ぜた感じです。
街で会う人たちは、
あえて宗教を聞くと「イスラム教だ」と答えるものの、
イスラム教の信仰をしている雰囲気はあまり感じられず、
日本の仏教・神道、のような状況です。
コソボの人口の92%を占めるアルバニア人は、
西洋系のアルバニア人である、
というアイデンティティを強く持っています。
宗教よりも、アルバニア人、ということがまず第1です。
歴史的には、
アルバニア人が最初に受容した宗教は、カトリックです。
イスラム教は、オスマントルコの統治下に入った際に、
アルバニア人の間に広まりました。
オスマン帝国の崩壊後は、まずセルビアに、
さらにユーゴスラビアというセルビア人主導の共産国に
組み入れられ、
ここで、生活様式は、東欧共産圏風となりました。
ユーゴスラビア時代には、セルビア正教であるセルビア人が、
政治的に進出し、アルバニア人に対する抑圧が出て来ました。
アルバニア人による、コソボの独立の際には、
この「セルビア人のセルビア正教」に対抗して、
「アルバニア人のイスラム教」、が浮上し、
結果として、アルバニア人のアイデンティティを示すための
イスラム教の国、という見せ方になってしまっています。
一方では、「イスラム教」を推進するため、
スカーフをすると生活援助をする、
というような中東系の団体が来ている、という噂があり、
そうした、「ホンモノ」のイスラム教に対しては、
やはりどこか顔をしかめて警戒するような雰囲気があります。