かつて昭和45年から58年(1970-1983)にかけて古曽部町1丁目に住んでいて、通学路より一筋西側の古曽部窯・五十嵐邸門前の細道をとおって近所の小学校に通っておりました。
先日、所用のついでに、数十年ぶりに高槻市を訪問、古曽部窯・五十嵐邸の近辺を散策してまいりました。今回と次回のエントリーは、古曽部窯の現状についての紹介です。
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1.古曽部の里と製陶業「古曽部焼」、「古曽部窯」の「古曽部」(こそべ)とは、そもそもいったい何かといえば、現在の大阪府高槻市の中部、大阪平野と老ノ坂山地の境界に位置した農村の名前でありました。
古曽部の里の位置は、以下のとおりです。
*旧嶋上郡
古曽部村(旧三島郡磐手村/高槻町
大字古曽部)
(この図版の出典は、『高槻市史』第2巻((高槻市史編纂委員会 編,高槻市役所,1973年刊)の付図である「高槻市大字・小字図」より「大字古曽部」の部分をスキャンしたものです。*
現在の古曽部町一丁目~五丁目 googleマップより
現在の古曽部町は、旧古曽部村(大字古曽部)とくらべ、東西幅はともかく南部と北部が大幅に削られています。古曽部から削られた部分というのは、南方は水田、北方は山林・丘陵で、大正時代からバブル期にかけて、商業地・工業地・学校(大学)・宅地などとして開発され、昭和30年代末に
新住居表示が高槻市で施行された折に、「古曽部の里」から切り離されたのでした
(詳細はWikipedia古曽部などを参照)。
古曽部町の本体部分も、私が古曽部に居住していた昭和45年~58年(1970-1983)ごろは、まだ広々とした田んぼがひろがっていて、農村としての趣が豊富にのこっていましたが、30年をすぎた現在では、わずかに名残の田んぼがほそぼそと残っている、というほどに激変しました。また
高槻北高校・
雲が峰神社の裏手から西側、
名神高速道路の南側には、まだ広大な山林が残っていました(現
美しが丘町の部分
等)が、現在では、あまねく宅地開発され尽くしてしまっています。
他の焼き物の産地は、複数の窯元が、ひとつの郡や町・市のレベルで広範に分布しているというのが一般的ですが、
古曽部焼の場合、窯元は、
古曽部窯の
五十嵐家1軒のみ、立地の場所である
古曽部の里も、ごく小さな農村にすぎない上、国鉄(現JR)高槻駅から旧村域(旧大字域)との境界まで徒歩1分、古曽部の里の中心を通り抜け、旧村域の東北端にある古曽部窯まででも徒歩20分ほどと、高槻市の中心部に隣接した地域であり、この土地において製陶業が拡大・発展していくには、きわめて不利な条件がありました。
古曽部窯の五十嵐家では、かつて産廃(失敗作や使用済み製陶具)の投棄先として広大な
物原」
(ものはら,「灰原」)を保有していましたが、昭和40年代の市道の開削・平成12年(2000年)の都市計画道路の設置などで60%近くが召し上げられてしまっています。
五十嵐家の
古曽部窯は、大正の末年(1926)を最後に作品は焼かれなくなり、1950年代には登窯も壊れてしまったのですが、
その後、昭和後期に入り、七里寿弥氏、寒川義崇氏など他地域出身の陶芸家が高槻市に移り住み、「古曽部銘」を入れ、「古曽部焼」と名付けた作品を作り始めます(→
新古曽部)。
しかしながら、寒川義崇氏がご自身の工房を開窯された1978-79年頃といえば、古曽部町の中心部にはまだ田んぼが広々とひろがり、北部の丘陵地(五丁目,現美しが丘町)にも山林が残されていた時期でしたが、おそらくは地価高騰や、水・土などの関係で、寒川氏は開窯の地を、
古曽部ではなく、
川久保の地にお求めになったのでした(七里氏の工房の所在地・開窯時期などは、現在調査中)。
2.古曽部窯の現在古曽部窯の立地についてですが、
Wikipedia-古曽部焼は、「
古曽部窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い古曽部東北部の平野部と丘陵部の境界(現古曽部三丁目)に居をかまえ、登り窯の本体は五十嵐邸の敷地(旧字池ノ下)に置かれ、その北方の五十嵐家が所有する竹藪(旧字歓喜寺)を「物原」(ものはら,「灰原」)として使用した。」とのべています。
古曽部窯は、古曽部村(大字古曽部)の東北部、以下の図のような場所に位置していました。
この図版は、「高槻市大字・小字図」(高槻市史編纂委員会 編集『高槻市史』第2巻,高槻市役所,1973年)付図より、古曽部窯とその近辺を拡大し、スキャンしたものです。物原は、正確には旧字の歓喜寺だけでなく、池ノ下・東山田にもまたがっているようです。
黄色部分が登窯と五十嵐邸の敷地、緑部分が「物原」の領域です。
次の地図は、googleマップを土台として、以下の報告の付図などを参考に加筆・修正を加えたものです。
*橋本久和「古曽部焼窯跡の調査」(鎌ケ江一朗・高橋公一編『高槻市文化財年報 平成12年』高槻市教育委員会,2002年3月29日,pp.12-17,図版第4-図版第6)

→
gloogleマップのオリジナル→
gloogleマップの航空写真もともとはa,b,畑,竹藪の全域が、「五十嵐家所有の竹藪」で、物原。
a=昭和40年(1965)ごろ、東西道路が開通
b=平成12年(200)ごろ、都市計画道路や宅地として開発
畑=時期不明、畑として開墾される
竹藪=a,b,畑を除く、未開発部分。
古曽部窯が
廃窯となり、使用済製陶用具や失敗作品が新たに投棄されなくなったのち、一時期は、物原の全域が竹藪となっていた。その後、順次開発が進む。
このように地図化してみると、五十嵐邸と
物原で構成されている古曽部窯の敷地が開発によりズタズタに切り裂かれていることがわかります。
こちらのページ(高槻市役所「古曽部窯跡」)に「古曽部窯跡の発掘調査」という写真が載っていますが、正確には、「古曽部窯・物原跡の発掘調査」というべきでしょう。みっつあるbブロックのうち、右側の内部に立って、中央のものを撮影したものです。写真左の竹藪がbブロックの左側、黄色い「工事中フェンス」の向こう側がaブロックの道路、その向こうに「畑」や「竹藪」も見えます。
私は昭和52年~55年(1977-80)ごろ、
近所の小学校に通うため、五十嵐邸東側の細道をいつも通行していました。
このころといえば、古曽部窯で最後に製品が焼かれてから50年が過ぎており、3つの「b」ブロックには鬱蒼と竹が生い茂っていました。古曽部の西の境界に位置する
「天神さん」の境内の竹藪が、当時は子供が自由に入り込んで冒険し放題だったのとくらべ、bブロックを3っつに分割する細道には厳重に垣根がはりめぐらされており、とても竹藪の中に入り込んで遊べるような状態ではありませんでした。薄暗く不気味な雰囲気で、あしばやに通り抜けたものです。
『古曽部焼研究』の著者杉本捷雄は、昭和10年(1935)7月、5代信平・五十嵐栄次郎の案内で物原を訪問し、発掘調査をおこなっていますが、この段階ですでに物原を「(五代五十嵐栄次郎が)代々ガラ捨て場であったと云ふ同家所有の竹藪」(p.2)と述べており、きわめて早い時期から、物原の竹藪化が進展していたことがわかります。
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【物原
(ものはら)】
使用済み製陶用具や失敗作などが投棄された場所。
「物原」についての情報源※
有田陶磁器EXPRESS>「窯跡基礎知識」有田町教育委員会の村上伸之さんのサイト
※
心の時空>物原(ものはら)blues_rockさんのブログ