古曽部焼大好き!

古曽部焼大好き!

摂津の国の古曽部の地(現大阪府高槻市)にて焼かれていたやきもの・古曽部焼。

古曽部焼について紹介していくブログです

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愛用しているアップルのノートパソコンに「マップ」というソフトが付属しているのを発見しました。googleマップのような航空写真を、さらに回転させたり、斜め方向の3D画像でみることができたりします。今回のエントリーでは、同ソフトを使用して、「古曽部窯(跡)」の現状についてご紹介します。

※以下は、以前のエントリーにも使用した平面地図
五十嵐邸と物原

※正面(南側)より
古曽部窯正面

※右側面(東方)より
古曽部窯東面

※左側面(西方)より
古曽部窯西面


杉本捷雄『古曽部焼研究』(学芸書院, 昭和11年(1936)刊)によれば、古曽部窯の位置について、「五代信平廃窯までの窯は今もたゞ焼かれないだけで、窯元の屋敷裏に残っている」と記述されているのですが、「屋敷の裏手」というのがわかりません。

「現在の五十嵐邸の裏手」にあたる部分は、平面図でいうなら「b」と記した箇所にあたり、現在は全面的に道路となっていますが、道路建設にさきだち行われた発掘調査の報告書(橋本久和「古曽部焼窯跡の調査」(鎌ケ江一朗・高橋公一編『高槻市文化財年報 平成12年』高槻市教育委員会,2002年3月29日,pp.12-17,図版第4-図版第6))は、この箇所を「物原(ものはら)」と記述し、「窯跡は検出されなかった」と述べています。

しかし、五十嵐邸と南隣の隣家との間にひろがるひろい庭には、登窯に利用できそうな傾斜はないし、窯がこの庭にあったとするなら、杉本氏の記述も「屋敷の正面」となっていただろうし……。

謎は尽きません。

この大きな構造物は、いったいどのように配置されていたのだろうか……?
登窯1

(原載:杉本捷雄『古曽部焼研究』(学芸書院, 昭和11年(1936)))


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※以下は高槻市川久保にある寒川義崇氏の工房「茶陶 古曽部焼 義崇窯」の写真です
義崇窯直上
北が下、南が上です。写真の中央を、左から右(東から西)へ水瀬側が流れています。
道路と川にはさまれた大きな建物は「磐手小学校川久保分校」跡、寒川氏の工房は橋の南側にある建物です。

磐手小学校時代(昭和51年・2年生ごろ)、春の遠足でこの分校前を通過、雨に降られて凍えていたところ、御茶をふるまってもらって生き返った心地がした記憶があります。寒川氏の工房が建設される数年前、ということになります。

義崇窯南方

北側正面から。右側の白い建物が登窯とおもわれます。


今回のエントリーで使用した図版は、出典について言及したものを除き、2015年12月24日(木)に私が撮影した写真です。

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古曽部窯は、「登窯」を用いて陶器を製造していました。
登窯とは、「斜面を利用して築かれる製陶用の設備」です。
【参考】
丹波窯
この図は、兵庫県多紀郡今田町にある「丹波焼」の登り窯の図です(大槻伸「丹波の登窯」(満岡忠成・楢崎彰一・林家晴三編『日本やきもの集成[7]近畿ii』平凡社,1981)の付図(p.105)です)
※さらに参考
*Wikipedia-登り窯
*Wikipedia-連房式登窯
*日本の窯の歴史 愛知県の博物館を愛好する方のサイト

斜面に設置され、いくつかの「焼成室」=「袋」にくぎられ、最下段の「焚き口」で燃料をもやし、一千数百度に熱せられた空気が窯の内部をとおりぬけ、最上段へと抜けていくなかで、窯の中におかれたやきものを「焼成」していく、という仕組みです。

古曽部窯は、焼成室を9つ連ねた「連房式登窯」というタイプでした。

登窯1

こちらがありし日の古曽部窯。
原載は、古曽部焼研究の専著として名高い杉本捷雄『古曽部窯研究』(東京,学芸書院,1936年)です。写真では、縦の柱と柱との間にひと「袋」づつ3「袋」がクッキリとうつっていて、さらにその上方の影の部分にもさらに2,3「袋」があるようにみえますが、はしごや横向きの柱2本でかこまれている「袋」のあしもと(写真左下隅)にも、ちいさな「袋」が見えます。おそらくは、この小さな「袋」の左側に「焚き口」があるのでしょう。3本の柱の陰にそれぞれ「出入り口」があるのも見えます。「Wikipedia-古曽部焼」にも引用されていますが、昭和10年(1935)夏に古曽部窯を訪問した杉本捷雄氏は、「現在の窯跡は、登窯で、本窯が七袋、捨窯が二袋で、本窯は本焼、捨窯は楽手と素焼が一袋づゝである」と述べています。

登窯2
入江唯信『わがふるさと古曽部』(光月山文庫,1981)に収録されている写真です。
こちらも、ありし日の古曽部窯。上記の杉本氏の写真が、最後に窯が焚かれてから9年後の写真であるのに対し、こちらは現役で稼働している時の写真です。杉本氏の写真に続く、登窯の右側面の部分で、第6袋~第9袋の前での作業と思われます。登窯の右側面で、こちらでも、ひと「袋」ごとに「出入り口」があるのが確認できます。

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以下は、五十嵐邸近辺の、現在の写真です。
【五十嵐邸1】
五十嵐邸の敷地を東南側から撮影したもので、庭木の根元に「古曽部竈跡」の石碑があります。
五十嵐邸

写真の右下から右中央にかけて伸びる細道が急坂になっているのがおわかりでしょうか?
この坂が、まさに老ノ坂山地と大阪平野の境界部です。

写真では、明るい日差しが五十嵐邸をさんさんと照らしていますが、私が奥坂小学校に通って居た昭和52年~55年(1977-1980)ごろは、この細道の右側(東側)は鬱蒼とした竹やぶでした。左側も、五十嵐邸の敷地をすぎると、竹やぶでした。
古曽部竈跡碑
「古曽部竈跡」の碑文
写真撮影は自粛しましたが、この石碑のすぐ左手の門扉とよく刈り込まれた生垣ごしに、五十嵐邸と古曽部窯跡の様子をうかがうことができます。「五十嵐邸1」に写っている青い屋根は、敷地東南端にある小さな小屋、庭木のむこうの白い壁の建物は、資材置き場と思われる倉庫で、これらのたてものにはさまれ、南から北へむかって緩やかに傾斜する庭がひろがっています。その北側に本邸があります。

【五十嵐邸東面】
五十嵐邸傾斜

「資材置き場」と本邸を横(東側)からうつしたもの。
左が「五十嵐邸1」にも写っている倉庫、中央の門扉をはさんで右側に建っているのが五十嵐邸です。斜面にまたがってたてられた建物の南側は二階建て、北側は1階建てになっています。中央の門の前から右上にむかって階段がありますが、門扉の向こうにも、この階段と並行するかたちで傾斜路があります。
登窯は、この傾斜路の向こう側にあったと思われます。

【古曽部丘陵の傾斜】
五十嵐邸物置
本邸横より倉庫を撮影した写真ですが、下辺の階段にご注目ください。通用門と本邸の勝手口をつなぐ階段ですが、この傾斜が、登窯にも利用された、古曽部丘陵の斜面ということになります。

「古曽部窯跡」案内板
高槻市教育委員会が設置した、「古曽部窯跡」の案内板。

【五十嵐邸および物原跡】
五十嵐邸および物原跡
五十嵐家の本邸を東側から撮影。写真にうつっている道路は平成12年に建設された都市計画道路ですが、歩道の左端に設置されている柵より手前は、歩道の部分も車道の部分もすべて、かつての古曽部窯の物原で、竹やぶとなっていました。

こちらの「古曽部窯跡碑」(高槻市公式サイト「インターネット歴史館」)に「古曽部窯跡の発掘調査」という写真が掲載されていますが、ただしくは「古曽部窯・物原跡の発掘調査」と題するべきでしょう。発掘されている領域は、写真右側中央部の、電信柱の根元の立て看板より向こう側の歩道・車道の路面に該当します。竹やぶと発掘地の境界付近に、「五十嵐邸1」にも写っている細道が通っています。

【物原跡】
物原跡
上記の写真の東側。中央部に竹やぶ・森がうつっていますが、写真中央・自転車にのった女性より左側の部分が、古曽部窯・物原の続きになっています。

【物原跡2】
五十嵐邸北面
物原跡から、五十嵐邸北面をみる。この写真にうつっている路面は、全面的にかつての物原に該当します。


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以下は、他のサイト・ブログで紹介されている古曽部窯跡・五十嵐邸の写真です。

じろべえ工房>古曽部案内板>古曽部焼窯跡
古曽部町内で陶芸工房をいとなむ「次良兵衞」さんのサイト

写真3:五十嵐邸北面の写真。白い柵で三方を囲まれ、土盛がされている箇所が、こちらの写真の左中央~左上部を占める竹やぶがあった場所です。この写真にうつっている路面のほとんど大部分が、古曽部窯の旧物原跡です。
写真4:五十嵐邸東面を、北東側から撮影。私の撮影した【五十嵐邸1】の写真にうつっている細道の北端(カラーコーンと壁との隙間)がうつっています。この写真でも、うつっている歩道・車道の全面が、旧物原の域内に該当しています。
かつて昭和45年から58年(1970-1983)にかけて古曽部町1丁目に住んでいて、通学路より一筋西側の古曽部窯・五十嵐邸門前の細道をとおって近所の小学校に通っておりました。

先日、所用のついでに、数十年ぶりに高槻市を訪問、古曽部窯・五十嵐邸の近辺を散策してまいりました。今回と次回のエントリーは、古曽部窯の現状についての紹介です。

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1.古曽部の里と製陶業

「古曽部焼」、「古曽部窯」の「古曽部」(こそべ)とは、そもそもいったい何かといえば、現在の大阪府高槻市の中部、大阪平野と老ノ坂山地の境界に位置した農村の名前でありました。古曽部の里の位置は、以下のとおりです。

*旧嶋上郡古曽部村(旧三島郡磐手村/高槻町大字古曽部
古曽部村全域図
(この図版の出典は、『高槻市史』第2巻((高槻市史編纂委員会 編,高槻市役所,1973年刊)の付図である「高槻市大字・小字図」より「大字古曽部」の部分をスキャンしたものです。

*現在の古曽部町一丁目~五丁目
 googleマップより

現在の古曽部町は、旧古曽部村(大字古曽部)とくらべ、東西幅はともかく南部と北部が大幅に削られています。古曽部から削られた部分というのは、南方は水田、北方は山林・丘陵で、大正時代からバブル期にかけて、商業地・工業地・学校(大学)・宅地などとして開発され、昭和30年代末に新住居表示が高槻市で施行された折に、「古曽部の里」から切り離されたのでした(詳細はWikipedia古曽部などを参照)

古曽部町の本体部分も、私が古曽部に居住していた昭和45年~58年(1970-1983)ごろは、まだ広々とした田んぼがひろがっていて、農村としての趣が豊富にのこっていましたが、30年をすぎた現在では、わずかに名残の田んぼがほそぼそと残っている、というほどに激変しました。また高槻北高校雲が峰神社の裏手から西側、名神高速道路の南側には、まだ広大な山林が残っていました(現美しが丘町の部分)が、現在では、あまねく宅地開発され尽くしてしまっています。

他の焼き物の産地は、複数の窯元が、ひとつの郡や町・市のレベルで広範に分布しているというのが一般的ですが、古曽部焼の場合、窯元は、古曽部窯五十嵐家1軒のみ、立地の場所である古曽部の里も、ごく小さな農村にすぎない上、国鉄(現JR)高槻駅から旧村域(旧大字域)との境界まで徒歩1分、古曽部の里の中心を通り抜け、旧村域の東北端にある古曽部窯まででも徒歩20分ほどと、高槻市の中心部に隣接した地域であり、この土地において製陶業が拡大・発展していくには、きわめて不利な条件がありました。

古曽部窯の五十嵐家では、かつて産廃(失敗作や使用済み製陶具)の投棄先として広大な物原(ものはら,「灰原」)を保有していましたが、昭和40年代の市道の開削・平成12年(2000年)の都市計画道路の設置などで60%近くが召し上げられてしまっています。

五十嵐家古曽部窯は、大正の末年(1926)を最後に作品は焼かれなくなり、1950年代には登窯も壊れてしまったのですが、その後、昭和後期に入り、七里寿弥寒川義崇氏など他地域出身の陶芸家が高槻市に移り住み、「古曽部銘」を入れ、「古曽部焼」と名付けた作品を作り始めます(→新古曽部)。
しかしながら、寒川義崇氏がご自身の工房を開窯された1978-79年頃といえば、古曽部町の中心部にはまだ田んぼが広々とひろがり、北部の丘陵地(五丁目,現美しが丘町)にも山林が残されていた時期でしたが、おそらくは地価高騰や、水・土などの関係で、寒川氏は開窯の地を、古曽部ではなく、川久保の地にお求めになったのでした(七里氏の工房の所在地・開窯時期などは、現在調査中)。

2.古曽部窯の現在

古曽部窯の立地についてですが、Wikipedia-古曽部焼は、「古曽部窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い古曽部東北部の平野部と丘陵部の境界(現古曽部三丁目)に居をかまえ、登り窯の本体は五十嵐邸の敷地(旧字池ノ下)に置かれ、その北方の五十嵐家が所有する竹藪(旧字歓喜寺)を「物原(ものはら,「灰原」)として使用した。」とのべています。

古曽部窯は、古曽部村(大字古曽部)の東北部、以下の図のような場所に位置していました。

五十嵐邸小字図
この図版は、「高槻市大字・小字図」(高槻市史編纂委員会 編集『高槻市史』第2巻,高槻市役所,1973年)付図より、古曽部窯とその近辺を拡大し、スキャンしたものです。物原は、正確には旧字の歓喜寺だけでなく、池ノ下・東山田にもまたがっているようです。

黄色部分が登窯と五十嵐邸の敷地、緑部分が「物原」の領域です。

次の地図は、googleマップを土台として、以下の報告の付図などを参考に加筆・修正を加えたものです。

*橋本久和「古曽部焼窯跡の調査」(鎌ケ江一朗・高橋公一編『高槻市文化財年報 平成12年』高槻市教育委員会,2002年3月29日,pp.12-17,図版第4-図版第6)
五十嵐邸と物原

→ gloogleマップのオリジナル
→ gloogleマップの航空写真

もともとはa,b,畑,竹藪の全域が、「五十嵐家所有の竹藪」で、物原。
a=昭和40年(1965)ごろ、東西道路が開通
b=平成12年(200)ごろ、都市計画道路や宅地として開発
畑=時期不明、畑として開墾される
竹藪=a,b,畑を除く、未開発部分。
古曽部窯廃窯となり、使用済製陶用具や失敗作品が新たに投棄されなくなったのち、一時期は、物原の全域が竹藪となっていた。その後、順次開発が進む。

このように地図化してみると、五十嵐邸と物原で構成されている古曽部窯の敷地が開発によりズタズタに切り裂かれていることがわかります。


こちらのページ(高槻市役所「古曽部窯跡」)に「古曽部窯跡の発掘調査」という写真が載っていますが、正確には、「古曽部窯・物原跡の発掘調査」というべきでしょう。みっつあるbブロックのうち、右側の内部に立って、中央のものを撮影したものです。写真左の竹藪がbブロックの左側、黄色い「工事中フェンス」の向こう側がaブロックの道路、その向こうに「畑」や「竹藪」も見えます。

私は昭和52年~55年(1977-80)ごろ、近所の小学校に通うため、五十嵐邸東側の細道をいつも通行していました。

このころといえば、古曽部窯で最後に製品が焼かれてから50年が過ぎており、3つの「b」ブロックには鬱蒼と竹が生い茂っていました。古曽部の西の境界に位置する「天神さん」の境内の竹藪が、当時は子供が自由に入り込んで冒険し放題だったのとくらべ、bブロックを3っつに分割する細道には厳重に垣根がはりめぐらされており、とても竹藪の中に入り込んで遊べるような状態ではありませんでした。薄暗く不気味な雰囲気で、あしばやに通り抜けたものです。

『古曽部焼研究』の著者杉本捷雄は、昭和10年(1935)7月、5代信平・五十嵐栄次郎の案内で物原を訪問し、発掘調査をおこなっていますが、この段階ですでに物原を「(五代五十嵐栄次郎が)代々ガラ捨て場であったと云ふ同家所有の竹藪」(p.2)と述べており、きわめて早い時期から、物原の竹藪化が進展していたことがわかります。


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【物原(ものはら)
使用済み製陶用具や失敗作などが投棄された場所。

「物原」についての情報源
有田陶磁器EXPRESS>「窯跡基礎知識」
有田町教育委員会の村上伸之さんのサイト
心の時空>物原(ものはら)
blues_rockさんのブログ
12月11日のエントリーで4点の作品を紹介した新古曽部七里寿弥氏。

その一つ、「古曽部窯 御本立鶴茶碗 茶道具 共箱 無傷 4126t」ですが、昨14日に¥5,550で落札されました。

私は、普段使いの器として五十嵐・七里・寒川を一個づつそろえよう!という壮大な野望のもと、この商品に入札してみようかな……とおもっていたのですが、終了間際になって苛烈な入札合戦がはじまり、私の入り込む余地などあっという間になくなってしまいました。

質問欄には、「朱印に古曽部窯とありますが、五十嵐ですか?七里ですか?」という質問と、「時代からみて七里と思われます」という回答があるので、入札合戦をやっていた方は、本品を新古曽部・七里窯の作品と承知のうえで購入なさったものと思われます。

「共箱付の茶道具」ということで高い値段がついたのかも。

「御本立鶴茶碗」というのは、江戸幕府三代将軍家光が鶴の絵を書いた茶碗で、各地の焼き物の陶工が、その「写し(写しもの)」を作っています。


前回のエントリーで紹介した七里氏の別の作品、
「盃:海老の図(古曽部窯)/K150809★」 
ですが、値下げされて、¥2,500からのスタートになりました。

(それでも、五十嵐が3代信平のもので¥2,000-、4代信平のもので¥1,850-で落札してるのを考えると、まだまだ強気な価格設定?いやいや、この五十嵐は共箱なし、合箱だから、作者の署名がある共箱だと、かなり低価格からの出品?……という印象)。

それはともかく、古曽部の海老江小皿は、五十嵐のものも寒川のものも揃えた。残るは七里のみ!というコレクターの方には、注目でお買い得かも。



「写し(写しもの)」とは、特定産地の陶器の形状や模様・図柄を模倣した作品をつくること、またそのようにして作られた作品のこと。「◯◯手」ともいう。贋作とはことなり、生産者・消費者の双方に模倣であるとの合意がある場合が多い。用例:御本写(御本手)、三島写(三島手)、高麗写(高麗手)、安南写(安南手)等。


「共箱(ともばこ)」とは、陶磁器・絵画・彫刻などの芸術作品において、作品の完成と同時に、作者または作者が依頼した権威ある人物により、箱の側面や箱の蓋の表面・裏面などに作品名・作者名・工房名などが署名された箱のこと。

茶器の場合、各流派の宗匠などから「御書付」を受けることにより、その宗派の門人たちから、作者自身の手で署名されたものよりも、はるかに高い評価を受けられたりすることもある。
はじめての古曽部。

通販でみつけた「古曽部の土瓶」。商品価格¥3,200+送料¥1,000なり。
姿のいい、素朴な味わい。

古曽部土瓶

ちょっとピンボケしていますが、銘印は、四代信平のものに、きわめてよく似ています

土瓶銘印

姿・形がたいへん気に入ったので、五十嵐なのか、じつは京古曽部なのか……はもう問題にはしませんが、商品がとどいてみてガクゼンとしたのは、器の外部も内部も、なにか透明の塗料?樹脂?でまんべんなくコーティングされていたことでした。

販売者に問い合わせてみると、もとは資料館の展示物だったとの由。

透明のコーティングには塗りムラや指の跡などまったくみあたらず、まんまんと湛えられた溶液に、ドボンと一挙に浸して一瞬で塗り上げたものと思われます。

毎日お茶を飲むための普段使いの器が欲しかったのですが、はたして熱湯を注いで大丈夫なものか判別がつかないので、いまのところ飾って眺めて楽しむだけの日々です。

やはりこういうものは、まずは手にとって見ることが不可欠だな、とあらためて痛感した次第。