忘れ去られた経済学者① ヴェルナー・ゾンバルト
近代資本主義のはじまりについて語られるときに必ず出てくるのが、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。通称、プロ倫。多くの学者が、この説を踏まえないと社会学や経済学などの学問領域において近代資本主義を論じられないと考えている。そもそも、史学などの文系の領域であっても、学問というものは科学的な手法で研究されている。学界、とくに日本の学会においては、論文の書き方において恐ろしいほど形が決まっている。先行研究を挙げて・・・研究対象を絞って・・・論拠を挙げて、結論に導く。確かに「科学」の論証の手法ではこのようにするのが正しい。しかし、欧米のように、本質的なことや全体的なことを論じたり、異端の説を唱えたりがしにくい。日本の学界とは、このような閉鎖的な研究空間なのである。学界から、この説は間違いであると決定付けられてしまったら、黙殺され、歴史の中に埋まるしかないのだ。さて、プロ倫の話に戻るが、この説が主流になったのにも「陰謀」のようなものがあったと思えてならない。ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)というドイツの経済学者がいた。彼はマックス・ウェーバーとも親交があったが、ゾンバルトは後にナチスお抱えの経済学者となり、歴史的には汚名を負っている。ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)プロ倫が学問上、「正」として採用されたのもこのゾンバルトの説が否定されたことが背景にあった。二人は、同時代を生き、研究者として交友があり、ゾンバルトをウェーバーが大学に引き入れようともしていた。ゾンバルトはユダヤ教について以下のように貨幣と結びつけて考えていた。企業家とは,「事業への関心」にもとづいて,一方では労働者の教育や個別企業間の革新的結合を主導する「組織者」 として,他方では計算・投機・交渉の才能に長じた「商人」として機能しつつ,企業における利潤の極大化を実現しようとする人物に他ならず,そうした彼らの経済活動を根底で支えているのは,「知性」と「道徳」という固有の内面的な気質であった。ゾンバルトは,このような資本主義的企業家像と,感覚,感情を排し,もっぱら抽象性ないし知的主知主義的な合理的解釈だけを信奉する 「現代の」ユダヤ人企業家たちとの間に強い親和性があることを指摘し,さらに「目的志向性」,「可動性」,「適応能力」といったユダヤ人に独特の「諸特性」が,資本主義的企業家の本性に完全に符合するものであることを強調する。「ゾンバルトにおける資本主義 的企業家像の構成と『ユダヤ人的特性 』」 奥山 誠『政經論叢』75(1-2): 225-262 より引用ゾンバルトは、ウェーバーと真逆の説を唱えていたのだった。つまりユダヤ人の抽象的指向性、つまり、人間性や道徳性といった「質」が近代資本主義を作り出したのだという理論に対して、どちらかといえばユダヤ人たちの合理的な部分、つまり数値化を得意とした商人としての知恵と、柔軟な適応能力が合わさり、近代資本主義の特性としての指向を作り上げたというのだ。まさに、アカデミズムとマスメディアが「意識化」させ、通貨発行権を「無意識化」させてきた状態が学界においても同じく行われているのがみられる。ゾンバルトの説が否定的に扱われてきたのは、ユダヤ人が金融を支配してきたことを無意識化するためであろう(この金融経済における「無意識化」の概念は、天野統康『世界を騙し続けた[詐欺]経済学言論』からお借りしてきている。通貨発行権を含め、資本主義経済に対して疑問がある方は是非ご一読を。そう、資本主義の終わりを証明したマルクスやピケティーよりも先に、誰がこの仕組みをセットしたのかを)。通貨発行権が無意識化されることによって、デフレの他、ハイパーインフレやスタグフレーションといった不況が「作り出されている」という事実に一人でも多くの方に気付いていただきたい。そう、この世界の金融経済は、あたかも音程を自由にチューニング楽器のように、FRBそしてIMF、そしてそれらの株主である、国際金融資本によって調整可能であるという事実に・・・・(※本ブログでは国際金融資本(通称:金融ユダヤ)の方々を批判する意図はありません。彼らの本当の意図は宗教的意義がある可能性が高く、マンガでいうと進撃の巨人のエレン・イェーガーのように、突き進まなくてはならない理由があるのかもしれません。)