カントの格率(格律、Maxime)とは、行為主体=個人の「現実的で主観的」行為原理を指す。まず、「自分のものとして持っている」との「現実的」原理である。次に、「自らの行為の指針として自分に課する」という意味で「主観的」原理である。そうした意味で、格率は「個人の、個人による、個人のための」自律・自由の行為原理であるといえよう。そこにはまた、近代の産物たる個人主義や自由主義が投影されているともいえよう[1]

このように、格率の出所は現実の行為主体自身である。その意味では、格率は行為主体の感性や欲求などの主観的制約を受ける、個人に限定されるものである。いいかえれば、個々人の自己のもつ〈特殊な〉行為原理である。ならば、自己と他者の誰にでも妥当する客観的かつ〈普遍的〉行為原理、ないしは規則(Regel)にはなりえないのではなかろうか。「なりうる」とカントは答えるであろう。その理由は次の通りである。

カントによれば、人間は誰でも―道徳感情や道徳性が内深く宿っている―理性(Vernunft)を持つ、理性的存在者である。このすべての理性的存在者の間には、客観的に通用する原理たる〈普遍的〉道徳法則(moralishes Gesetz)がある。この道徳法則に、格率は合致すべき行為原理として規則の一つである。というのも、カントは、人間の理性と共に悟性や判断力を正しく使用する場合に従うべき規則を格率と呼ぶわけである(理性の格率、悟性の格率、判断力の格率)。したがって、格率は誰にでも妥当する客観的かつ〈普遍的〉行為原理になりうる。また、道徳法則(を包括する規則)にもなりうる。

こうして格率は道徳法則にもなりうるのだから、それによって、定言命法は(仮言命法も)導出し定式化される。その典型は「汝の格率が普遍的法則となることを、汝が同時にその格率を通して意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」という定言命法である。こうした定言命法はまず、自分の中の良心の声である。その意味で格率と同様、自律・自由の行為原理である。しかし同時に、個々人の人間は、自分の理性の純粋意志が自らに課す道徳法則を認識し、それに従うことの行為もできる。

さらに、個々人の人間は、自らに課す道徳法則を定言命法として受け止め、それに従うべき義務(Pflicht)をもつことになる。カントによれば、「義務とは、道徳法則に対する尊敬に基づいて行為しなくてはならないという必然性」である。そして「意志の自律」こそが「道徳法則とそれに従う義務の唯一の原理」とされる。カントは義務を「法義務(Rechtspflicht)」と「徳義務(Tugendpflicht)」に分類する。もう一つの分類は「完全義務」と「不完全義務」であるが、それぞれがまた「自分に対する義務」と「他人に対する義務」に分けられる。

さて、カントの格率も定言命法も同じく、様々な問題点があると指摘される。また批判もされてきた。ここでは二つの問題点を取り上げたい。一つは、格率や定言命法は道徳法則になりうるが、しかし件の法則の実質的な内容を与えないという点である[2]。与えるのは、行為をする際の形式的な枠組みだけである。そのために格率や定言命法だけでは、行為をする際、具体的にどうすればいいのか分からない。したがって、その形式的な枠組みだけではなく、それを実践する理性を正しく導くための実質的な内容が必要である。

もう一つは、格率や定言命法を自己のみならず、他者と共有し協働(Mitwirkung)するにはどうすればよいのかという問題点である。いいかえれば、道徳法則に従う行為を共同化しかつ公共化せず、個々人の良心の声や自律・自由に任せてよいのかという問題点である。任せたままでは、格率や定言命法は現実性と実質性は勿論、共同性(Gemeinschaft)と公共性(Öffentlichkeit)が欠けることになる。すなわち、自己と他者との関係とそれが構成する共同体の規範(Norm)にはなり難いのだ。したがって、何らかの普遍妥当な道徳原理としての規範が求められると指摘できる。

格率や定言命法のもつ問題点はまた、その道徳法則に従うべき義務を論じる際にも響くのだろう。カントの義務論の特徴は、(義務としての)道徳法則に従う行為の「動機(Motiv)」を重視すること、いわば「動機主義」にある。義務の道徳的価値は、行為の結果ではなく、その動機の善し悪しによって決まるということである。そして「傾向性(Neigung、習慣的な感性に基づく欲望・欲求)」ではなく、義務の行為が従うべき、道徳法則の価値を行為の動機とすることが善いとされる。

こうしたカントの義務論には(彼の生存当時、イギリスを中心に風靡していた)功利主義(utilitarianism)に対する批判意識が強く投影されている。功利主義は行為と規則との二つに分けられる。行為功利主義とは、行為を選択する際に「最大多数の最大幸福」や「満足の最大化」といった功利性の原理を用いる立場を指す[3]。この立場によれば、行為の価値はその行為の結果に依存するとされる。それゆえ、(義務の行為が従うべき)道徳法則の価値は―無視されるとはいえるまいが―度外視される。一言で、不道徳的な行為を許す、放置する恐れがある。

この功利主義に対する批判意識は道徳的に高く、正しい側面をもつ。その意味で、カントの義務論は高邁な正論であるといえる。だが他方では、その道徳法則に従うべき義務の行為は固陋な厳格主義(rigorism)に縛られる側面をもつ。そうした問題点の一例を取り上げてみよう。カントにとっては、「嘘をついてはならない」との道徳法則は無条件の格率・定言命法である。したがって、たとえ自分が嘘をつくことによって誰も「不幸や不満足」を被らないような場合でも、やはり「嘘をついてはならない」ということになる。しかしながら、嘘をつくことによって他者が「不幸や不満足」を被るどころか、「幸福や満足」を得るような場合もありうる。そのような場合も件の道徳法則を無条件に固守せよとするならば、固陋な厳格主義に縛られることにほかならない。

だからといって、功利主義をむやみに弁護するわけにはいかない。功利性の原理は、もし自分が嘘をついても誰も「不幸や不満足」を被らないのであれば、その嘘は構わないということになる。しかも嘘をついてこそ自分や仲間集団が「幸福や満足」を得るならば、「嘘も方便」として正当化されることになる。さらに、「最大幸福」「満足の最大化」のための「手段を択ばない」とすれば、その功利性は極めて不道徳的・非倫理的原理にならざるをえない。だから、功利主義の問題点はカントの義務論のそれより多く深刻であると言ってよい。とにかく、その両方の問題点を克服するための〈普遍‐公共〉の規範を見出すことが必要不可欠であると考える。

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈参考文献〉

有福孝岳・坂部恵等編『カント事典』、弘文堂、1997年

岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』、勁草書房、1965年

コースガード、クリスティーン『義務とアイデンティティの倫理学 規範性の源泉』、岩波書店、2005年

深作守文『人倫の形而上学の基礎づけ 実践理性批判』、理想社、1981年

 

 


[1] ちなみに、格率という用語はラテン語のpropositio maxima(最上位の命題)を含意する。そこには数学とくに自然科学の認識の確実性を基礎づけようというカントの意図が投影されているといえよう。

[2] 件の実質的な内容としては、例えば、キリスト教の『聖書』や仏教など宗教の経典といったものを考えればよかろう。あるいは、儒教の五常(仁義礼智信)のような具体的な教えを考えてもよかろう。

[3] 規則功利主義とは、従うべき規則を選択する際に功利性の原理を用いる立場を指す。