文化構造論B シンクレティズム 2
ながらへば またこのごろや しのばれむ憂しと見しよぞ 今は恋しき突然すみません。これは百人一首の藤原清輔朝臣の歌です。もし、この世に(自分の本望ではなく)生き永らえていたら、今超辛いんだけど、この今をまた懐かしく思い出したりするのかなぁあんなに辛かったあの時も、今思い返すと懐かしく、いい時代だったなぁと思ったりするのだから・・・っていうような歌です(若干私の主観はいってますが)先日テストを受けたのですが、全くのお手上げでした。自分がいかに思考していないかを思い知らされたのでした。どんなに暗記していても考える力がないと書けない問題で、ああ、知性ってこういうことだったよね、と卒業してから○○年、自分の知的怠慢を恥じたのでした・・・大学時代、あのときの私はあのときの私なりに辛かったのですが今おもうと、いい時代だったなぁと思ったりします。あのときの私は気づいていなかったけど、少なくとも今よりは知力に満ちていたし、時間も環境も恵まれていたよね、と思います。それと同じように、未来にいる私が、今の私を思い出すと、懐かしく愛しく思えるのでしょうか。藤原清輔朝臣という大昔のひとも同じ心境になっているのを思えば人間の普遍的な心境なのだろうなぁと思ってちょっと慰められたりします。***さて、前回の続きです。シンクレティズムとは、複数の信仰が混合しているものだというが、では、その前提条件としてある、混ざり合う前の「純粋な仏教」とか「純粋な神道」というものが存在するのだろうか、という議論です。まずは「神道」についてですが、結論から言うと、現在の歴史学においては、純粋な神道というものは存在しなかった、という見解が主流です。日本における神の観念は仏教の影響を受けて変容してきました。例えば、古代において神は祭りの時期やある期間中だけ来訪するものでした。来訪して磐座(いわくら)や依り代(よりしろ)にとどまって、祭りが終わればまたかえっていく存在でした。ところが仏教の影響を受けて神の観念が変化し、お寺に鎮座する仏像のように、神社に定住するようになりました。また神道における「穢れ」の概念も仏教の影響で生まれてきたものだそうです。神道で言う穢れには「死の穢れ」と「女性の穢れ(血の穢れ)」があります。この二大穢れも平安時代前期まではそれほど意識されていませんでした。ところが平安中期になって強く意識されるようになる。それは仏教の穢土・浄土の概念の影響だという話です。こうして仏教と混ざり合いながら変化してきた神道ですが、近代日本では、純粋な神道が存在する、という幻想に陥ることになりました。神道は天皇やナショナリズムと結びつき、日本は神の国である、だから異国とは違うのだ、神の守護があるのだ、戦争に負けるはずがない、という思想のもとで国政がなされました。ナショナリズムの影響を受けると人間は自国の文化を非常に古いもの、特別なもの、純粋で混じりけのないもの、ずっと続いているもの、と思いこみます。(ナショナリズムの思想が人間の思考をそのようにもっていくそうです。日本だけではなく、フランスやドイツもその傾向があるとのこと。確かに、フランス人のフランス語やフランス文化に対する意識を思うと理解できます。)ナショナリズムの旋風下では神道はあたかも、古来から日本にある、日本オリジナルの宗教のように見えました。しかし、実は純粋な神道などというものは存在しない。色々なものが融合して、さらに時の政治や権力の都合によって変形し、私達が今日イメージする神道や、「日本における神」 というものが存在しているのです。