下総国生郡松崎村(現在の千葉県印西市あたり)に菊右衛門という人がいました。またその友人に喜和右衛門という人がいて両人ともに酒を好み、つねに互ひに睦まじく酒を飲み合っていましたが菊右衛門は病に罹ってて先に死んでしまいました。

 

 

それから三年を過ぎて喜和右衛門もまた病の床に臥すことになりました。

ある日、病人である喜和右衛門が寝床でまるで誰かが来ているかのように長々しく一人で話す様子が聞こえてきたので、喜和右衛門の息子がそれを怪しんで父の枕元に行って「何を長々しく独り言を言っているんだ?」と聞けば、父が言うには「さっき仲の良かった死んだはずの友人の菊右衛門が来て「自分は3年前にこの世を去り、自分が今いるあの世(冥土)はとても楽しい所なのでお前を迎えに来たんだ」と言われて少し話をしていたんだ。

 

それで「オレは酒飲みたいから今はまだ死ぬつもりはない」と菊右衛門に言ったんだが「あの世にも酒も肴もあるからそんな心配いらない。しかし実際に死んでみると酒を飲みたいとは不思議と思わないよ」と言って菊右衛門は消えてしまった」と言われたのでした。

 

 

喜和右衛門の息子はそれを不思議に思って菊右衛門の家に行ってそのことを菊右衛門の息子に話すと「父の菊右衛門は3年前に死にましたが、常に酒が大好きだったので遺言で「自分が死んだらお盆は言うに及ばず時折酒を手向けくれ、これだけがオレの頼みだ」と言い残して死にました。ですので父が死んでからは時折位牌に酒・肴を供へているので冥土にもその供物が届いてそうなっているんでしょう。」と言いました。

そうしているうちに喜和右衛門もまた死んでその息子も父の位牌に怠りなく酒や肴を供へているとのことです。父母の霊にはこのようにありたいものです。

(現代文に直しています)

 

奇談雑史

 

 

 

シルバーバーチなどの西洋の霊では先祖を祀ることを全く説きません。これは文化の違いだと思われます。日本は神代の昔から先祖を神として家の守護神となってもらえるように願いました。

 

 

仏教は元々釈迦の戒律によって葬式をしませんし、墓も作りませんでしたが、鎌倉から戦国時代あたりから実益欲しさに死人の世話をするようになります。

 

 

これは本来の仏教の教えから見れば戒律破りであり仏の道から外れた行為で実際に奈良の東大寺や飛鳥寺などは境内に墓はありませんし、葬式も行いません。彼らは仏教の本当の教えを守る数少ない本当の意味での仏教徒と言えるでしょう。言うまでもなく仏教本来の目的は死人の世話などではなく修行を積んで悟りを得ること、解脱することです。

 

 

今の日本の多くの僧侶は葬式仏教などと揶揄されており、確かに仏の道から外れています。釈迦の教えに逆らいながら釈迦の威を借りる現状は残念ではありますが、ここ800年~400年くらいは先祖を仏教で弔うのが日本では一般的となりました。

 

 

徳川幕府と当時の仏教徒たちの考えた檀家制度で個人から信仰を奪い強制的に国民全員を仏教徒にさせられてしまったからですが、自分がそういう社会の中で生きてきたので、子孫もそのようにするべきと考えている人が多いから日本の霊的な逸話では先祖崇拝のような話が多いのだと思います。

 

 

 

自分が先祖を大切にしてきたから、自分も子孫に大切にされるべきだというのはわからなくはありません。人間は死んでもほとんどの場合は地上とほとんど変わらない境涯にいますので、地上時代の習慣や文化などはほとんどそっくりそのまま残っているため日本人であれば先祖を大切にしろというでしょうし、そういった文化のない西洋ならそれに関してはノータッチなのだと思われます。

 

 

 

 

しかし実際に地上スレスレの世界にいる死者たちにお供えをすれば普通に届きます。また先祖が子孫に祟ること多々あり、また守護することも同じです。

 

私の家でも朝夕にお米と塩、水などを備えていますがちゃんと届いています。

 

 

近年では祖先祭祀は廃れて全く行っていないという家庭も多くなりましたが、祟るのか祟らないのか、守護のあるのかないのかは死んだ人の霊的な進歩状況によって千差万別です。

 

 

先祖を大切にしない子孫に対して怒ることもあれば、苦しい境涯にいていつも腹を空かせているので子孫を病気や不幸にすることで自分の現状に気づいてもらい祀ってもらうために実際にそうする霊もいます。

 

 

よく親や祖父母が子や孫を苦しめるわけがないなどと言う人がいますが、それは通常の状態の話であって、自分が苦しければなりふり構っていられないですし、自分の教育に反したことを子や孫がすれば怒る親はいくらでもいます。

 

 

ただ生前のように言葉で言ってきかすことが出来ないので病気や不幸という形で子孫に働き掛けるしか低級霊や地縛霊の状態にいる先祖には方法がないというだけです。

 

 

どんな悪人でも地上時代に放蕩の限りを尽くした人でも死ねばみな天国の明るい境涯で楽しく暮らしているなどというのは完全な幻想であり、地上時代の因果応報に死後苦しむがゆえに子孫に祀ってもらうことで救いを求める霊は山のように存在します。

 

 

私たちも死んだ後も子孫に祟らないつもりでも、苦しい環境に置かれれば致し方ないというケースもあり得るので、出来るだけ善行を積み、人に親切にして死後は少しでも良い境涯に進めるようにしたいものです。