ほつまつたゑを読む人にとって有名な「ほつまつたゑ 解読ガイド」というサイトがあるのですが、おそらくここの管理人である御預二号さんという方が書いた 「神の見た夢 天地創造の実相」という本を読みました。
この本はアメリカのジェフリー・ホッピーという人にトバイアスと名乗る霊がチャネリングした内容をもとに小説風に書かれたものです。
この本では悪という存在の意義について考えさせられます。
私なりにかなり意訳が入りますが、この本によればまず原初において創造神があり、そして創造神は善や愛や真や美などに基づく、要するに一元的な存在でした。
最初だけちょっと読めますので是非どうぞ。
創造神は妻や子供たちを作り自分の世界を作り上げますが、ある時自らの世界の発展に限界が訪れます。
元々あった創造神の性質は善や愛や真や美などであり、そこから進歩向上・発展したものの構成する根源的な要素が一元的だったためにそこからの進歩の限定されたものでした。
一面的なものの見方、一面的な存在しか存在しないがゆえに考え方や行動によって生み出されるものもそれに応じたものでしかないからです。
しかし一元的な世界ではありますが創造神はその時に一度進化・進歩としての究極をに到達しました。ゴール、完成、最高点、言い方は何でも良いですが要するにそれで終わりということです。
人間的に言うなら山頂に到達し、本を読み終え、ゲームをクリアーするなどもうこれ以上何も先がないという状態です。
これはある意味ではおめでたいことですが、別の意味では活動の停止を意味します。活動が停止するということは(人間の肉体的な意味ではないけれど)死ぬということであり、流れの止まった川のように濁っていきます。
そこには何の進歩も向上もなく、より良い生活や今よりもも明るい未来はありません。頂点に到達したあとは堕落していくことはあるかもしれませんが、それ以上は向上することが出来ず、登山家が世界最高峰の山頂に登りきってしまった状態です。
もう何もすることはない、活動を完全に停止するということはある種の死と言えます。
すべての人間を含む動物たちが死にたくないと考えるように創造神も同じく考えますが、しかしながらこれ以上の経験を積む方法が一切存在しない。
その万事休すという時に創造神の子供たちの一部が自ら創造神の宇宙を離れて別の世界で新しい経験を得るべく旅立ちます。
これが枝分かれした私たちの祖神です。
創造神のいた原初の宇宙から切りなされた私たちの祖神は言うなれば人間の肉体から切り離された手足のようなものです。
同じ遺伝子情報を持っているので能力も本体と完全に同じではないけれど近しいものを持っています。
元の創造神のいる宇宙を第1宇宙、そこから切り離された私たちの祖神が旅立った宇宙を第2宇宙と呼びます。
私たちの祖神は創造神から自ら離れたため創造神としての記憶の一部を失いましたが、新しい第2宇宙で敵と味方に分かれて争うことで新しい経験を得ました。
つまり創造神のいた一元的な宇宙から二元的な宇宙を作ったわけです。
善と悪、真と偽、美と醜、愛と憎、剛と柔、集と離、強と弱、静と動、日と月、陰と陽、男と女、高と低、軽と重、など言い出したら切りがないですが、私たちの世界が二元論によって成り立っているのはこの世界にいる私たちにはとても理解しやすいでしょう。
一元的な創造神の世界にもこうったものが一部においてあったのかもしれませんが、少なくともそれを本質とした世界ではなかったようです。
また2種類のものには中間段階が無数にあります。いずれにしても敵と味方に分かれて私たちの祖神は徹底的に第2宇宙で争いました。
また二元性という第1宇宙にはなかった性質も第1宇宙の限界を超えたあらなる経験や進歩をもたらすのに大いに役に立ちました。
神の見た夢 - 天地創造の実相の中ではこの後に第2宇宙で私たちの住む物質界が作られるのですが、ここでは悪について述べたいので割愛します。
元々の創造神のいた一元的な宇宙はおそらく愛や美や幸福に溢れた筆舌し難い素晴らしい世界であるのだろうと想像します。それはそれで素晴らしくまた私たちが求めるものでもあります。
同時にそこにはあまり進歩がなさそうとも思います。私たちの物質世界でも例えば家が金持ちで安楽な生活をし、苦労らしい苦労もしたことがなく、挫折も失敗も悲しみもなく、ただ毎日のんびりと楽しく暮らしていたら、少なくとも人間的な成長はなさそうです。むしろ最初は良くてもだんだんと腐っていきそうな感じです。
過去においてとても苦労したとか、悲惨な目にあったとか、苦しい思いをしたことがあっても、その時のつらい経験があるからこそ成長できたし、今の自分があると思うことはないでしょうか?
それは安楽な生活をしていたら得られない進歩や成長なはずです。そういう意味ではつらい苦しい経験も価値のあるものと言えますし、棚から牡丹餅を食べるだけの安楽な生活は価値のないものと言えます。
もし過去においてそのつらい経験がなければ何の進歩も向上もないままだったはずです。それは良いことなのでしょうか。
私たちは色々なものを良いと悪いと二元的に区別しますが、悪いものも人間を成長させるという意味では価値のあるものなわけです。
悪いことを通して良くなるわけで、悪には悪としての価値が大いにあるわけです。もし悪がなければ、つまり一元的な世界であったなら私たちは成長することはできません。
成長しないということは活動停止するということであり、つまり生命としての終わりなわけです。
私たちから見て世の中には悪と断じたいことがたくさんあります。侵略者、犯罪者、嘘つき、詐欺師、利己主義者など何を善とし悪とするかは人それぞれですが、汚いことをする人間を見て腹を立てたりやるせない気持ちになることは多いでしょう。
しかし悪があるからこそ私たちは一元的な世界では得られなかった膨大な経験を得ることが出来ています。そしてそれにどう対処するかによって一元的な世界では不可能だった成長・進歩を獲得しているという意味では素晴らしく価値のあることと言えます。
悪はある一定の価値があり、また必要でもあるのでよく管理し、上手に利用していくべきです。今の世はそれが出来ずに悪が暴走している状態でしょう。バランスが崩れたために随分ととんでもないことになっていますが、悪によって私たちが成長することが出来たということを考えると悪を憎んだり、怒ったりするのはもったいないことだと思います。
ちなみに御預二号さんという方が書いた 「神の見た夢 天地創造の実相」という本で述べている歴史的な経緯を信じているわけではありませんが、述べていることは非常に合理的ですし、一元的な世界では得られなかった経験を二元的な世界では得られるというのは非常に納得がいきます。
あくまで小説という感じですがおすすめです。