〝悪〟とは何か、地上生活の究極の目的は死後の生活に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり、憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の〝我慢〟です。

 

人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そしていつでも援助の手を差し伸べる用意ができていなければなりません。

 

シルバーバーチの霊訓

 

 

 

 

ある時、金光様の家の麦わらの垣に、だれかが火をつけて焼きかけになっていた。それを見た人が、「金光様、こういうことをする者には罰(ばち)を当てておやりなさい」と言ったら、「こういうことをする者こそ神に願って、心を直してあげなければならない」と仰せられた。

 

 

人を殺さないと言っても、心で人を殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないと言うが、それは目に見える。

目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神の心にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上(かみ)があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神がおとがめになる。心で殺すとは、病人でも、これは大病でとても助からないなどと言うが、これが心で殺すことになる。人間の心では、助かるか助からないか、わかりはしないであろう。また、あの人は死ねばよいと言ったりもする。それがみな心で殺すのである。そうではなく、どうぞ向こうが改心しますようにと、神に祈念してあげよ。

 

天地は語る 金光教経典抄

 

 

イエスが死刑執行人の手によって十字架にかけられると真っ先に愛するヨハネを呼び自分の母の面倒を依頼した。

女たちが十字架のそばに近寄るとそこにはイエスの血と汗が滴り落ちているのを目撃した。

 

陽の光が消え失せ、辺りが暗くなってきても奇跡は起こらなかった。押しかけてきた(ユダヤ人の)祭司や律法学者の嘲る声だけが響いていた。

 

彼らはイエスに向かって行った。「お前が神の子なら今すぐにこの十字架から降りてみろ!他人を救っても自分を救えないとはね!」また他のものがやってきて罵った。「あの罪状札を見てみろよ!【ユダヤ人の王、イエス】なんてぬかしやがる!」

 

彼らは口々にピラトのことを罵った。ピラトはイエスのような人間を殺そうとするユダヤ人を軽蔑していたのでわざわざこのような罪状札を十字架の上部に貼り付けさせたのである。イエスはついに静けさを破るように大声で叫んだ。「父よ彼らを許してください。訳も分からないでこんなことをしているのですから。」

 

 

イエスの成年時代

 

 

 

世の中を見渡せば見て気に入らないこと、憎らしいこと、腹が立つこと、納得の行かないことが誰によらずたくさんあるはずです。

 

これは霊的視点から見れば本人の心を鍛えたり、罪の償却だったりと様々な意味があっても人間の物質的で限定的な視野からはわからないことが多いので怒ったり恨んだりするのはある意味で仕方のないことです。

 

しかしこれもまた地上に生まれた1つの試練と思われるのですが、そんな時こそ人を悪く言ったり、悪意を持つ代わりにその相手が少しでもまともな人間になれるように祈ってあげるべきです。

 

 

霊性が進歩するに連れて人間は自動的に寛大さが増すとシルバーバーチは述べています。

イエスはまさにユダヤ人の悪略によって殺されんとする時に彼らの罪を許してくれと神に祈っています。霊界物語でも国祖・国常立大神は下々の神(当時は人ではなくみんな神だった)を守るためにイエスと似たような目に遭っていますし、素戔嗚尊も同じですが、自分を苦しめる相手のために地上を守護しています。

 

 

これは子供同士なら喧嘩するような内容でも大人と子供では喧嘩にならない、大人から見るとなぜそんなことで怒ると疑問に感じたり、我慢が出来ない、視野が狭い子供同士だから仕方ないと諦めを感じるのに似ています。たとえ子供が大人に刃向かっても、それは子供同士の喧嘩とは違います。大きい度量で物事がわからない子供に接してあげるべきです。

 

 

子供たちが成長して大人になれば分別がつき、少なくとも幼児のような理由では争わなくなるでしょう。これは大人になるまでは仕方ありません。

人を自分の利益のために、あるいは無思慮から傷つけたり苦しめたり悲しませる人間は霊的な見方をすれば子供そのものです。

 

 

しかし地上では肉体を持っているので、中身が子供でも外見上は自分と似たような大人の人間と接すると相手が悪に見えることがあります。

 

 

死後の世界に移動して霊的な視点から見れば人格的に未熟である人間とそうでない人間の違いが一目瞭然なので、地上において子供がくだらないことで粗相をしても「子供だから仕方ない」と思えるように、人格的に未熟な、つまり霊的に進歩の劣る人間を見ても仕方ないと思えるようになるでしょう。

 

未熟な人間は成熟した人間のように考えたり、振る舞ったりすることは難しいのです。

 

 

ですので高位の天人・天使たちにとっては自分を傷つけ苦しめる相手に更正して欲しい、幸福になって欲しいと祈るのは当然のことなのです。地球もじきにそのような人間たちが普通になってきます。そのときに進歩仕切れない人間たちはどうなるのかわかりませんが、地球から出ていってほかの星でまたやり直すのか、別の方法があるのかわかりませんが、現在の過渡期に生きている私たちは直接自分の日常生活に関わる関わらないに関係なく悪人がいたら、その人がまともになるように祈ってあげるべきです。

 

 

霊たちは地上で起こっている様々な苦難に対して地上人ほど悲観的なことを言いません。それは自分が死んで霊界に来たことによって地上時代よりも広い視野を持てるようになったからです。物事の裏にはちゃんと目的があるということが分かるので、たとえそれが悲しく苦しい出来事でも首尾よくそれを通り抜けた際にはより良い未来が待っていることを知っているからです。

 

 

例えば自分や自分以外の人間が苦境に陥っている場合には霊的な視点からは次のように考えることが出来ます。1つは前世を含めて過去に行った自分の罪の償いであること、もう1つはそれ自体が自分の足りない部分を鍛える試練であったり、相手に試練を提供するためであるというケースです。大抵は生まれる前に自分が選んでいることが多いです。

 

 

それとは別のケースで苦境に陥ることもあります。これは後で必ず埋め合わせがあります。無数のケースがあり得ますが、類魂や同胞全体の罪としてそうなってしまう場合もあるようです。

 

必ず言えることはどこかの時点で必ず天秤は釣り合うということで、悪行を積んだ人間の前にはやはり苦しみがあり、善行を積んだ人間の前にもやはり報いがあります。試練であればそれを乗り越えれば自分が求めていたものを獲得することが出来ます。

 

それが上記に該当しない苦しみなら後で必ず埋め合わせがあり、逆に上記に該当しない喜びならやはり後で支払いがあります。

 

人間は不当に得したり損したりすることはありません。ですので創造神によってすべてが平等に計られている以上、悪行を積めば損ですし、善行を積めば得なわけです。

これがわかれば人間は怒ったり恨んだりしなくなるはずです。

 

 

もちろん納得できず、創造神を疑うのは構いません。悪事を積んでも逃げ切れると考えても良いですし、善行を積んでも見返りはないと考えても構いません。因果応報が確実にあり、自分が間違っていたと気づくまで何度でも痛い目に遭うしかない人間がいるのは事実です。

 

因果応報は望む望まないに関係なく起こります。見返りはいらないと言って善行を積んでも、逆に逃げ切ってやるといって悪事を積んでも、それは不可能です。

 

 

高いレベルまで進歩した人間が悪行を積む人間に対して更正して欲しいと願うのは、彼らの前に苦しみがあるのを知っているからです。積んだ悪事が大きければ大きいほど彼らの前には想像を絶する苦しみがあります。

 

 

ですので私たちは腹が立つことがあったら怒ったり、悪口を言ったりする代わりにその人たちのために彼らがまともな人間になれますようにと祈ってやる必要があります。

すべての存在はみな神から見れば我が子である以上、兄弟姉妹と言える存在であり、兄弟姉妹に対して親切で愛情を持てるかどうかはそのままそれが私たちの霊性の指標となります。

 

どうしても誰かが許せない、腹が立つというのはその人がまだ未熟である証と言えるかもしれません。

 

 

普通に考えれば高位の神霊たちが気に入らないことがあったからと言って陰口を叩いたり、口汚く罵ったりするというのは考えにくいでしょう。彼らはいつも悪行を積む人間や霊的に未熟な人間を良い方に導こうと努力し、それが上手くいかない場合は悲しんだり、私たちのために祈ってくれています。

 

 

 

私たちも同じように出来れば少なくともその点においては高級神霊と同じ霊性を発揮しているということになります。

 

 

憎むべき相手のために祈りを捧げられるということは憎悪や恨みの代わりに愛や慈しみの感情を持つという神の属性を獲得していることになります。

 

 

霊界物語に出てくる国祖国常立尊も素戔嗚尊も、あるいはイエス・キリストも自分を苦しめ、傷つけた相手を恨んだりせずに、むしろ彼らを憐れんでいます。

 

神はともかくとしてもイエスは十字架に掛けられて殺されるときに自分を殺そうとする人間のために「彼らは自分たちが何をしようとしているのかわかっていないのだから、どうか神よ、彼らをお許し下さい」と祈ったように私たちも同じ人間としてそうでありたいものです。そうでなければならないはずです。