信仰は全く自由なものだ。神の道では取違ひと慢心とが一番恐ろしい。取違ひしてゐると神の目からは間違ひきつたことでも、自分は正しい信仰だと思つて進んで行き、他からの忠言も戒めも聞かない。そして行く所まで行つて遂に衝き当つて鼻を打つてヤツト気がつく。そして後を振り返つて初めて背後の光明を見て驚き正道に立ち帰るのである。 兎も角間違つてゐても神から離れぬことが大切である。やがては必ず自分から気がつくことがある。間違つてゐるからといつて矢鱈に攻撃しても詰らない。実は皆誰でも取違ひのないものはない。今日の処、まだ本当に分つたものは一人もないのだ。
玉鏡 出口王仁三郎
これは私にも経験があります。神に関することかどうかは別として、良かれと思ってやっていたことが実際にはそうではなかったという経験は多くの人が持っている経験だと思いますが、出口王仁三郎の述べる通り大切なのは例え間違っていたとしても神から離れないことです。
元より不完全な人間のことですから完璧など望むべくもありません。
自分の失敗に関して他人から寛容であって欲しいなら他人の失敗にも寛容であらねばなりません。
自分の失敗は許して欲しいけど他人の失敗は許さない。自分の至らなさには寛容であって欲しいけど他人の至らなさは許さないというのは神の道から外れているでしょう。
私たちが少なくとも動機が良いものである以上、神に対して取違をしていても未熟で無知な人間である以上仕方ないという風に判断してもらえるはずです。
「実は皆誰でも取違ひのないものはない。今日の処、まだ本当に分つたものは一人もないのだ。」と出口王仁三郎は述べていますが、これは確かにその通りだと思います。
全宇宙と全霊界の究極神たる全知全能を地上人の限られた知性で把握出来るはずはありません。絶対にあり得ないと言えます。
しかし例え取違いだったとしてもそれぞれの考えや手法で各々が神に対峙していくしかありません。
故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば〝悪人〟といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。
シルバーバーチの霊訓
シルバーバーチも他人の些細な失敗に大ナタを振うような真似を慎むべきと述べていますが、人間には誰一人として失敗しない人間はいません。
けれども神へより良い方向への導きを祈り、自分で最善の努力をしているならば失敗して痛い目を見ても、落ち込むことがあっても、それは少なくとも未熟な自分にとってはどうしても進歩に必要なことだったのですから前を向いて進まねばなりません。
大切なのは何があっても神から離れないことです。どれほど拙くても神と共にある限りきっとより良い方向へ少しずつであっても導いてもらえます。
自らの失敗を神に謝し神へより良い方向への導きの祈りを捧げれば必ず神は人間を助けてくれます。究極神でも、地球の守護神でも、自分の守護神でもなんでも構いません。大切なのは慢心しようが、取違いしようが、どんな失敗をしようが神から離れないことです。
そうすれば最終的には上手くいきますし、逆に神から離れればどれだけ小知恵を働かせても結局は駄目になってしまうでしょう。