「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」
霊の書 アラン・カルディック
「私はこれまで広大なおかげをいただいていますので、何か神様にお礼をさせていただきたいと思いますが、何を奉ったら、この神様は一番お喜びくださるでしょうか」とおたずねした。
金光様は、「神にお礼をするのに物を奉ってすむのならば、これまであなたが神のおかげを受けられたそのお礼には、何もかも奉っても足りはしまい。神はそんなものをお喜びになるのでもなく、また望んでおられるのでもない。神のありがたいことを知らない世の中の人々に、あなたがおかげをいただかれたことを教えてあげよ。そうすれば、その人々が助けられ救われる。それが神の一番喜ばれるお礼である」と仰せになった。
天地は語る(金光教教典抄)
祈願を叶えてもらったり神から特別な恩寵に預かったと感じた時に人は神に感謝しますがそれはどのように行ったら良いのか?と考えたときに色々な形があると思います。
神社に参拝してお礼参りをするのも良いでしょうし、自宅の神棚でお灯しやお水をお捧げしお礼をするのもいいかもしれません。特別な供物を用意したり、祝詞奏上したり、祈りを捧げたり、その形は人それぞれ千差万別です。
神への感謝の仕方にルールなどあるはずがありません。それが心からのものであれば神はお喜びになるはずです。
ただ現実的に考えて生け贄や血なまぐさいものよりも清らかなものをお喜びになるはずです。
しかし今日まで自分が神より受けてきた恩義に報いようと思った時に自分が持っているものすべてをお捧げしてもその恩に報いるには足りません。
そもそも人間が奉ることの出来るような物品は神にとって真に価値があるのかどうかと考えるとあまりなさそうではあります。本来地上の物質一切は神の所有物であり人間はそれを一時的に預けられているに過ぎません。あくまでその心をお喜びになるということであると思います。
親は小さな可愛い子供が何か子供らしいものを親にくれたらそれが大人にとっては金銭的に、社会的に無価値なものでも、その心や子供がくれたという事実を喜ぶはずです。
当然盗んだものや本当は渡したくないのに嫌々渡すようなことであれば貰う方も喜べないはずです。
この一点だけで神への供物をどうすれば良いのか?がわかるはずです。
火も水も賽銭も花も野菜も果物も、その他あらゆる供物も、そして祝詞も、祈りも、それが心からのものであれば神は喜んで受けて下さることはよく理解できるのですが、何ほどのものをお捧げしても神の恩に十全に報いたことにはなりません。
お返しするものよりも貰ったものの方が比べることが出来ないほど大きいからです。
それよりも神が喜ぶのは、一人でも多くの人間を様々な段階と分野で救うこと、助けること、そして神の道を歩む人間を増やすことでしょう。神の道を歩むということはシルバーバーチ風に言うなら霊的真理を普及させることです。
今の人間の九分九厘までは神ではなく悪魔の側に籍を持ち、究極神の神徳によってこの世のあることを知らず、神を信じず、ただ自分や金や物の力のみを信じています。
死後の世界で暮らす準備を何もせず、金や地位や名声のような死後の世界に持って行けない幻ばかりを追って、日々罪を作り、地獄にいく準備のために人生の大半を費やすのは残念なことです。
神はこういった不幸な子たちを救うために日夜憂慮し、多くの天使を使わしています。シルバーバーチやホワイトイーグルのような霊たちもそうですし、物質的な肉体を持っている人間にも知らず知らずに神に使われている人間がたくさんいます。
神に背いて、シルバーバーチ風にいうなら法則に背いて地獄に落ちるための準備に余念無く、残りの人生や死後の人生を不幸にするために生きている人間をたった一人でも神の道に導いたなら、きっと神は物的なお供えより、感謝の祈りより喜ばれるはずです。
可愛い子が不幸にならず、幸福になるのを喜ばない親がいるわけがありません。
法則と調和した生活を送っていれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。これらは自然法則との不調和の信号に他ならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するかです。この世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているから法則からずれるのです。
シルバーバーチの霊訓
人間は造られたるものである。造り主たる神様の御意志にしたがつて行動してさへ居れば、間違ひないのである。来らむとする大峠に際し、信仰無き人々をそぞろに気の毒に思ふ。
玉鏡 出口王仁三郎
シルバーバーチは人間の生活とは法則に従って幸福なるか、法則に逆らって不幸になるかという趣旨のことを述べていますが、「法則」を「神の道」と言っても同じことです。
また出口王仁三郎に限らず多くの霊的な書物で似たようなことが良く述べられています。
つまるところ人間には幸福になれる一定のやり方というのがあって、そこから外れれば病気や怪我や貧乏や苦痛があり、それを守れば幸福になれます。そこから外れた先の最後にあるのは破滅です。
神は自らの子がそうならないようにあらゆる手段を講じていますが人間に自由意志が授けられている限りは人間が破滅に向う選択肢が常にあります。
個人レベルでも人類レベルでもそうなる可能性を常に持っているわけですが、逆に幸福に平和に豊かになれる可能性も同じく持っています。
神の道、法則、霊的真理、言い方はなんでも良いですが、それを知って自らが幸福に豊かになれたなら一人でも多くの人にもその恩恵を広めるべきです。
シルバーバーチも知識には責任が伴う、つまり霊的な知識を持った人間はそれを広める責任があるという趣旨のことをよく述べていますが、そうすることが一人でも多くの人を救うことになるからです。
乞食は金をやれば喜びますし、病人は病気を治せば喜びますが、人間が本当の意味で永遠に幸福を甘受するには神の道を歩む、つまり法則に沿って生きるしかありません。
神のあるなし、神の恩、死後の世界、霊的な知識、こういったことの普及は人間の真の幸福に直結しています。逆にこういったことを無視することは不幸と破滅に直結します。
人類レベルでもっとこういったことに力を注いでいれば人類は今のようになってはいないでしょう。
賽銭も祝詞も感謝の祈りもお供えも、それが心からのものであれば神は喜ぶはずですが、なかでも神が最も喜ばれるのは一人でも多くの人間を救うことなはずです。
自らの子が不幸になることほど悲しいことはなく、逆に幸福になることほど喜ばしいことはないはずで、それは祈願成就のお礼に感謝の言葉や供物を貰うよりもずっと神にとって嬉しいに違いありません。
返しきれないほどの恩を少しでも返そうと思うなら、きっとこれが最良の神への恩返しであると思われます。