【問い】
毎日の生活の中で自己の精神的向上を促進し、悪の誘惑にビクともしないための最も効果的な方法は何ですか?


【答え】
古代のある賢人がすでに述べています。「自分自身を知れ」と。


【問い】
私たちはこの格言を知っていますが、自己認識を習得することはとても困難です。どうやって身に付けたら良いのでしょうか?


【答え】
私が地上にいた時にしたことと同じことをしてみて下さい。
1日の終わりには私は自分の良心に問いかけ、その日の全ての自分の行為を省みました。
何か義務を怠らなかったか?誰か自分に不満を持つ者はいなかったか?と。

こうして自己認識を行い、自分の改善に必要なものは何かを確かめるのに成功しました。

毎晩こうしてその日の全ての行為を思い、良いことをしたのか、悪いことをしたのかを自問して神や守護霊に導いて下さるように祈る者は自己改善のための大きな力を得ることが出来ます。なぜなら神が彼を助けるからです。


自分がしたことを自分で調べて下さい。どんなつもりでそれをしたのか自分に尋ねてみて下さい。何かを人のせいにしなかったか?公言して恥じるようなことをしなかったか?をです。

また次のように自分に問い掛けると良いでしょう。
「もし今この瞬間に神が私を霊界に呼び戻したいと望まれたら何も隠した手ができない霊の世界に戻るに当って私は誰かの目を恐れることはないだろうか?」と。

自分のしたことをまず神に対して、次に隣人に対して、最後に自分に対してどうであるのか?を審査してみて下さい。 

これらの質問の答えは自分の良心に休息を与えるか?あるいは何か精神的な苦痛を生み出すか?のいずれかでしょう。この痛みこそがあなたの直さねばならないものです。



このように自己認識は自己改善の鍵となります。しかし皆さんは「人間は自己愛の幻想に囚われがちで、自分の欠陥は目に入らなくなり、自分を正当化してしまいます。守銭奴は自分自分は先見の明を発揮して節約しているだけだと思い、高慢な人間はうぬぼれを権威だと考えます。こんな次第ではどのように自分を判断したら良いのか?」と尋ねるでしょう。

確かにこれは事実です。しかし、誰もが自分を欺くことのできない自己確認の手段を持っています。それはもし皆さんが自分の行為の何かに疑問を持ったら、他人がそれと同じことを自分にしたら自分はどう思うのかと自分に問い掛けてみることです。
その時もし相手が悪いと思えたら 自分の場合も同じことなのです。神は二つの天秤を持ってはいません。

 


また相手の立場に立って物を考えるように努力をしてください。
神は皆さんの側に友人の言葉よりも、もっとはっきりと警告してくれるものとして他人(敵)という鏡をしばしば置かれます。



次に固く自己改善の決意をするなら庭の雑草引き抜くように、自分の悪の性質を根絶やしにするため良心に問い掛けてみて下さい。
毎晩商人がその日の自分の道徳上の収支を計算する具合に精算してみてください。実際にやってみれば本人は収入が多い方が損失が多いよりも得なことに気付くはずです。


1日の行為を後で辿ってみて「今日の収支決算は上手くいっている」と言える人は安眠できるでしょう。やがて死後の世界で目覚めるその瞬間を何の恐れもなく待つことが出来ます。

 

霊の書 アラン・カーデック

 

 

自分自身を省みる、その方法は他人と自分を置き変えた時に正当であるか?です。イエスの言う「人からされて嫌なことは他人にもするな」というやつで、日常生活において人からされて不当だと自分が感じるならば、逆も全く同じであるという極めて当たり前の、こんなことは言うまでもないことですが、なかなかこれが難しいようです。

 

 

霊的な書物の多くはこのように、こんなことを言いに霊界から地上まで降りてきたのか?と思うような当たり前の道徳的なことが多いのですが、反面地球人の多くはそれが出来ていないというのも事実です。

 

 

 

死後存続、つまり永遠の生命における因果応報を否定し、死ねばすべて無に帰る、という根本から間違った唯物的な認識が人類をこんなにも不幸にしてきました。死ねば良いことも悪いことも全部なかったことになる、死ねば因果応報も関係ない。だったら生きている間に悪事を積んでも自分が得をする生き方をした方がマシだという考えを地球人がするのは無理のないことです。

 

 

死後の世界など絶対にないという強固な信念を持った人間が幽界でなかなか目覚めないのは事実ですが、彼らもやがては目覚めてすべての人が肉体が滅びても死後の世界があることを知り、そしてそれが地上そっくりの世界から始まり、しかも地上時代に自分が行った善行と悪業に見合った境遇に置かれるという事実に遭遇します。

 

 

これを予め知っていれば地上時代に悪事など積まなかったのに………、あるいは地上時代にもっと善行を積んでおけば良かった………と、歯噛みし後悔する人の数は計り知れません。

 

 

人間性を磨いたり、善行を積んだりするのは道徳的な側面もありますが、単純に損得でもあります。誰だって病気や怪我や貧乏や仕事における不遇な目になど合いたくありません。

 

健康で元気でお金があり、仕事や人間関係も上手くいき、さらに自分のやりたいことも上手く行く人生を送りたいという望みは多くの人が持つはずです。

 

 

もしそれを望むなら全知全能の作った因果応報の法則に沿って生きれば良いだけで、死後存続の事実や因果応報が事実であることを知ったなら悪事を積むのは自分の損であることがはっきりとわかるので、道徳的な側面から善行を積むのではなく、単に損になるからという側面から悪業を積まず、むしろ進んで善行を積むようになるでしょう。

 

 

そして段階が進めば自分の精神的な人格向上にも気を配るはずです。それがトータルで見れば得になるからです。

 

 

でも悪事を積んだ方が得じゃないか?という人もいるでしょう。それは詐欺や強盗をすれば得になるというのと同じです。もちろん人間社会の法や警察機構からは逃れることは出来るかもしれませんが、神からは逃れられません。ここがポイントです。神からは絶対に逃げられないということを知れば人類の行いは一変するはずです。

 

 

絶対に自分のしたことから逃げることが出来ないなら、そして自分のしたことが自分に返ってくるなら、悪いことをするよりも良いことをした方が得だという簡単な事実です。

 

 

それだけでも素晴らしいことなのですが、よりクオリティーの高い善行を積むためには自分自身の人格向上も欠かせません。自分自身が成長すればそれだけ善行の範囲や質が向上します。人格面が未熟であれば良かれと思ってしたことが逆効果だったり、見落としや考え違いや非効率や失敗を招く可能性は多いにありえます。

 

 

実際シルバーバーチにしろひふみ神示にしろ単純に道徳的な側面においても優れたことが書いてあり、これは神霊たちがそういった修養を積んできたことを意味しています。