ロッキー城に致り見れば、表門は開放され、一人の敵軍もなければ味方の影もなし。贋日の出神は怪しみながら、将卒を率ゐて四方に心を配りつつ奥深く進み入る。見れば、狐の声四方八方より、
『狐々怪々』
寂として人影もなし。
日出神『合点の行かぬ今の鳴声。アイヤ、淤縢山津見、固虎彦、残る隅なく捜索せよ』
淤縢山津見『オー、吾こそは三五教の宣伝使、今まで汝が味方と云ひしは、汝の悪逆無道を懲さむ為なり。サア、斯くなる以上は尋常に降服するか』
『エヽ』
固山彦『汝は日の出神と名を偽り、ロッキー城に立籠り、神界の経綸を根底より破壊せむとせし悪鬼羅刹の張本、斯くなる以上は、隠るるとも逃ぐるとも、最早力及ばぬ。覚悟を致せ』
日出神『ヤー残念至極、大国姫は黄泉島に向つて進軍し、部下の勇将猛卒は、或は出陣し或は遁走し、今はわが身一つの、如何とも術なし。サア、汝等斬るなら斬れよ、殺すなら殺せよ』
淤縢山津見『アイヤ贋日の出神、よつく聴け。天地の神明は愛を以て心となし給ふ。吾々人間として如何ともなし難きは空気と水と死とである。死するも生くるも神の御心だ。徒に汝が如き命を奪ひて何の効かあらむ。仮令肉体は死するとも、汝の霊は再び悪鬼となりて天下に横行し、妖邪を行ふは目に見るが如し。吾は汝の生命を奪ひて以て事足れりとなすものでない。汝が霊魂中に割拠せる悪霊を悔い改めしめ、或は退去せしめ、改過遷善の実を挙げさせむと欲するのみ。三五教は汝らの主張の如き、武器を以て人を征服し、或は他国を略奪するものにあらず。至仁至愛の神の教、よつく耳を洗つて聴聞せよ』
『オー、小賢しき汝の言葉、聞く耳持たぬ。斯くなる以上は最早吾等の運の尽、鍛へに鍛へし都牟刈太刀を味はつて見よ』
と言ふより早く、太刀をズラリと引き抜いて、淤縢山津見、固山彦に斬つて掛かるその勢凄じく、恰も阿修羅王の荒れ狂ふが如し。淤縢山津見、固山彦は剣の下をくぐり、一目散に表門指して逃げ出す。
日出神『ヤア、卑怯未練な奴。ナゼ尋常に勝負を致さぬか』
固山彦『エヽ残念だ、淤縢山津見さま、如何に三五教の玉の教なればとて、斯の如き侮辱を受けながら、旗を捲き鋒を納めて、この場を逃ぐるは卑怯と見られませう。変事に際して剣の威徳を現はすは、神も許し給ふべし』
淤縢山津見『イヤイヤ、至仁至愛の神の心を以て吾は此場を逃ぐるなり。竜虎共に戦はば勢ひ互に全からず。彼を斬るか、斬らるるか、彼も神の子、吾も神の子、神の御子同士傷つけ合ふは、親神に対して申訳なし。暫く彼が鋭鋒を避けて、更めて時を窺ひ悔い改めしめむと思ふ』
『エヽ三五教は誠に以て行り難い教であるワイ』
と地団駄踏んで口惜しがる。日の出神は見え隠れに後をつけ来り、この話を聞いて大いに驚き、思はず、
『ワツ』
とばかり泣き伏しにける。
固山彦『ヤア、なんだか暗がりに泣声が致しますよ』
淤縢山津見『さうだなア、何だか妙な泣声だ、よく似た声だ。ヤア、暗中に泣き叫ぶは何人なるぞ』
暗中より、
『私は日の出神と名を偽つた大国彦であります。只今貴方の仁慈に富める御言葉を聞いて、感涙に咽び思はず泣きました。私は今迄の悪を翻然として悔い改めます。どうぞ御赦し下さいませ』
淤縢山津見『ホー、満足々々、斯くならば敵も味方もない、全く兄弟だ。兄弟を助けたさに、吾は宣伝使となつて苦労を致して居るのだ。貴方の知らるる如く、吾も旧は大逆無道の醜国別、神の仁慈の雨に浴し、悔い改めて宣伝使となりし者、かくなる上は貴下と共に是より常世城に進み、常世神王広国別を神の教に帰順せしめむ』
固山彦『ヤア、流石は淤縢山津見さま、本当に感心だ。実地の良い教訓を受けました。サアサア日の出神……ではない大国彦殿、これより常世城に向ひませう』
霊界物語で日の出神を偽称する大自在天大国彦(大国主大神)が改心するシーンです。
記紀の黄泉比良坂の段に相当する部分で実際の出来事なのか、それとも物語なのかはわかりませんが、印象的なシーンです。
淤縢山津見は大国彦に改心を迫りますが、一旦は死を覚悟するも逆上した大国彦は破れかぶれになって剣を抜いて暴れ回ります。
葦原醜男神、八千矛の神の神名を持つ武勇絶倫の神様ですから暴れる様はさぞ凄まじかったのでしょうが、この状態の大国彦と争えば相手が死ぬか、自分が死ぬか二つに一つ、淤縢山津見は「相手も神の子、自分も神の子、神の子同士傷つけ合うのは親神に対して申訳ない」と言って一旦引き下がり、また落ち着いた頃合いを見て再度改心を迫るべしと逃げ出します。
相手も神の子、自分も神の子、同じ神の子同士が争うのは親神に対して申し訳ないというのは言われてみれば当たり前のことですが、なかなか人間には実践するのが難しいようです。
神の道、人の道から外れた生き方(シルバーバーチ風に言うなら法則から外れた生き方)は生前に、また死後に必ず報いを受けます。
そして死後は森羅万象の究極の創造神たる親神に対して顔向け出来ないようなことは出来るだけしないようにしなければなりません。
人間同士でもお世話になった人であるとか、恩師に対して顔向け出来ないようなことはしたくないという思いはある程度まで道徳心が進歩した人間なら誰でも思うことです。
ただ人間同士なら相手が霊視で出来る場合を除けば、バレなければ良いとか、死後存続を信じないなら相手が死ねば関係ないという風に考えますが、帰幽した霊に対して隠し事は不可能ですし、ましてや神に対して隠し事など何一つ出来るはずがありません。善事も悪事も完全に完璧に筒抜けです。
先に死んだ恩師や友人に背くような行為をして、死後霊界で邂逅した際にそれを霊界で素っ破抜かれ恥ずかしい思いをする人や誇らしい気持ちになる人はたくさんいます。
例えば女性が堕胎・中絶した際に死後必ずその子の霊と対面させられるということですが、女の反応は様々で喜ぶ者、恥ずかしがる者、悲しむ者、色々だそうです。つまりそれはその背景にある動機がどのようなものであったのかが重要になってきます。
利己的な動機からそうしたものは恥ずかしがったり、悔やんだり、苦しんだりしますし、全く致し方ない事情で産んであげられなかった子供と対面した女は大抵の場合喜びます。自分に恥じるところがあるかどうかが最大の要素となります。
戦争で共に戦い先に死んだ仲間たち、あるいは先に死んだ家族、あるいは自分が苦しめた人たち、とにかく生前の精算という意味で様々な人たちと必ず対面させられると多くの霊的な書物では述べられています。
死ねば全部無に帰るという根本的に間違った認識が人間を無責任で利己的にする側面もあるでしょう。先に死んだ自分の知り合い、友人、家族、敵だったり味方だったりした者、自分の守護神、産土神、天地の神、そして親神たる究極の創造神に対して恥ずかしいような生き方はするべきではありません。地上人からは直接的に五感として認識出来ないだけでみなたしかに存在しています。
相手も神の子、自分も神の子、同じ神の子同士で憎んだり、恨んだり、傷つけ合ったり、苦しめ合ったり、侮ったり、馬鹿にしたり、これがどれだけ親神に対して申し訳ないことなのかわかる人がどれだけいるのかは疑問です。
間違いなくこのような生き方は親神の御心には叶わないはずで、これがそのままその人の霊的な進歩状況を表しています。
人に対して恥じない生き方をすることはもちろんですが、最たるものとして神に対して恥じない生き方をするべきです。
シルバーバーチの霊訓の一節に下記のような文章があります。
あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つ指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります。
シルバーバーチの霊訓
相手も神の子、自分も神の子であるなら、お互いは兄弟姉妹のようなものです。自分の目からはどんな悪人に見えてもやはり神の子であり、兄弟姉妹である以上は心から憎むことは出来ないはずです。
もちろん一時の怒りの感情は誰にでもあるはずでシルバーバーチもあるとき質問者から「あなたも怒ることがありますか?」と聞かれて「ありますとも(人間の残虐非道な行為を前にして)」と答えていますし、イエスキリストも聖地エルサレムの神殿で両替商売をしていた商人に聖地を汚すなと鞭で追い払い多いに怒りを露わにしています。
何をしても喜ばない、悲しまない、くすりとも笑わず、残虐非道を前にして少しも心が動くことがない人間はもはや人間ではありません。慈悲の心も持たず、悲しみの念もなく、心に怒りの炎も全くない、進歩の果てにいつかはそんな無味乾燥な石ころのような状態になる?のかもしれませんが(全く想像出来ませんが)、少なくともその時はもう人間とは言えません。
怒りは人間らしい感情の一つであり、ひふみ神示に「怒りの現はし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。」とあります。
怒りの感情が持続するか、我を忘れるほど怒るのか、こういう部分においてはシルバーバーチもイエスもまさに「出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かく」なのでしょう。
私だって怒ることはありますが、相手も私の神の子であり同じ神の子で同士で争うのは親神に対して申し訳ないとも思いますし、相手に対してはまだ精神的に未熟なのだから仕方ない(大人であっても)という諦めのような気持ちが湧きます。相手を可哀想だとも思います。なぜなら因果応報からは絶対に逃れられないからです。相手が何を考え、どんな行動を取っても自分が蒔いた種を自分で収穫しなければならないことを知っているからです。
シルバーバーチはこのことを「霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれるある種の我慢です。」と述べていますが、私なりに例えてみると小さい子供がお店で欲しいお菓子やお玩具を買ってと泣いたり、怒ったり、わがままを言ったりするのと同じと感じます。
要するにまだ子供だから仕方ない、大人になって分別が付けばそういうこともなくなっていくだろうから今は仕方ない、ということです。これは子供がわがままを言っていることを許しているわけではなく、あまり非道ければ苛立ちを感じないわけでもありませんが、小さい子供だから仕方ないというある種の我慢です。
小さな子供であればとにかく話が通じないということもあるでしょう。あるいは面倒でも子供にもわかるように諭してやらねばなりません。相手の子供が自分より視野が限られ、未熟である以上、分別のある大人同士の対応というわけにはいかないのです。
地上では老人になっても子供のような人間がおり、肉体は老人なのですが、なんと魂の方は小さい子供のような人間が意外とたくさんいます。
遠目に見れば体は小学校低学年くらいなのですが、よくよくみれば顔には深い皺があり、顔だけ醜悪に老け込んでいるのに、なぜか体だけは子供のように小さいのです。
こういう目撃例は霊的書物にいっぱいあります。要するに物質的・肉体的なことにだけに関心を持って生きてきて、霊的・精神的なことに無関心、あるいはそこまで行かなくても本気で考えてこずに道徳心や精神が未発達なまま体だけ老人になっているというわけです。
少なくとも私はわがままを言う小さい子供に対して、大人同士の本気の戦いのような怒りと武力をぶつけることは出来ません。そんなことをすれば子供は死んでしまいます。
また多少のわがままを言っているからと言って持続的に何十年にも渡って恨み続けるということもありません。まだ小さい子供だから仕方ないのです。
霊的に未熟であるということは霊的な子供ということであって、人間に自由意志が与えられている以上、良いこともすれば悪いこともします。親神が人間をそういう風に作ったからです。
だから私もイエスやシルバーバーチのように怒ることはありますが、大体上のような考えでまぁ仕方ないと思います。相手が子供である以上どうにもならないこともあり、また悪事を積んだ人間を裁くのは親神の仕事であって、私の仕事ではありません。我慢というか、仕方ないというか、悪事を積む人間を憐れむことすらあります。
相手が実際にしたことに対して私が怒るか、あるいは怒らないかということとは全く別のラインで因果応報が働き始め、自分で蒔いた種を自分で刈り取る時がいつか必ず来ます。免除もされませんし、逃げることも出来ません。
どんな人間でも日常生活において人間的な心を持っている以上は多分怒ったりすることはゼロにはならないでしょう。シルバーバーチやイエスですらゼロにはなっていないのですから、私などが完全にゼロになるのはあり得ないはずです。
ただ神の子同士、また親神の手前自制が働きますし、相手が悪ければそれを裁くのは親神です。因果応報も絶対です。このことがハッキリとわかれば淤縢山津見のように、イエスのように、シルバーバーチのような心になるはずです。
この地上において最もド底辺の最低のクズヤローやゴミカスと蔑まれるような人間も、聖人君子や英雄と尊敬される人間も同じ神の子です。
すべては全知全能にして万物万霊森羅万象を生み出した究極の創造神によって作られ、過去においても現在においても未来においてもみな究極神の手の内にあります。
私たちが「こいつは神の子」「あいつは神の子じゃない」と勝手に区別しても無駄です。この世にもあの世にも究極神の創造物でないものは何一つ存在しません。
だから進歩した大人の霊は未熟な子供の霊のわがままや横暴に対して、ちょうど大人の人間が小さな子供するように教育や我慢をしなければならないのです。悪を見過ごせとか許せと言っているわけではありません。正しく導くように努力するしてやらねばならないということです。
どうしようもないときは放っておいて、本人の気の済むようにさせるしかありません。シルバーバーチたちもそう述べています。千年万年単位で長い目で見てやらねばならないこともたくさんあります。
ひふみ神示の神々もシルバーバーチもホワイトイーグルもインペレーターも、その他数多の進歩した高級霊や天使たちや守護神たちもまさにそうしています。
だから人間たちも出来るだけそのようになるように努力しなければなりません。