向ふの国の極悪神の頭が日本の人民を一人も無いやうに致す仕組を為て居るなれど、日本にも根本から動かぬ経綸しぐみが致して在るから、国も小さいし人民もすくないなれど、初発から「一厘と九分九厘の大戦ひで在る」と申して、何時までも同じやうな事を書かして在る通り、口で言はして在る事が、ドチラの国にもあるから、神力と学力との力比べの大戦ひであるから、「負けた方が従はねば成らん」と申して筆先に出して在る通り、実地に出現なりて来るから、此の先で神から不許ならんと申す事を致したり、我(われ)の一力で行らうと思ふても、世が薩張さっぱり変わりて了ふから、「是までの事はチットも用いられんぞよ」と度々気を付けて在るのに、聞かずに吾の我で行りたら彼方あちらへ外れ此方こちらへ外れて、一つも思ふ様には行かんぞよ。素直にさえ致せば、何事も思ふやうに、箱差した様に行くのが神代の政治であるぞよ。 

 

今迄は物質の世でありたから、学がここまで蔓りて、学力でドンナ事でも九分九厘までは成就いたしたなれど、モウ往生いたさな成らんやうに成りて来たぞよ。

 

 

大本神諭

 

 

度重なる異常気象、わけのわからない病気の蔓延、食糧危機、経済問題、国家間の戦争問題など世の中が大分詰まってきたように感じている方はたくさんいらっしゃるかもしれませんが、歴史を振り返ってみると、この程度のことは過去に何度もあり、その度に人々は「もう世界の終わりだ~」みたいなことを言って大騒ぎしてきました。

 

 

本やネットでも「〇〇の予言が~」とか大騒ぎしている人もたくさんいますが、大本でも明治時代に立替立直が起こると信じていた人たちが、実際には特に何も大きな変化がなかったことに失望して大本を辞めたりする人がたくさんいたそうです。これは霊的な書物はあくまで霊的に読むべきものであって、物的に読むことによる誤解・弊害であると出口王仁三郎は述べています。

 

 

 

近年なら1999年にノストラダムス云々とか2012年にアセンション云々とか大騒ぎしてましたが、特に地上にそこまで大きな変化はありません。

 

 

たしかに書いてあることが物質的視点から大なり小なり実現しているように見えることもあるでしょうし、人々に警告を与えるという意味で大切な意味もあるのですが、物事の本質は人間の霊的な側面の成長にあるように思えます。

 

 

人間がやれ放射能だ、やれ病気だ、やれ経済問題だ、やれ食糧危機だと、物質的な側面のみを重視するのは当然です。現時点の人間には物質的な面しか感覚の対象にならないから、そここそが大切な部分に見えるのでしょうが、物質は霊の反映であって本質は霊の方にあるはずです。

 

 

原発の放射能問題が現れれば、「出口王仁三郎の予言が~」とか、病気蔓延や地震が発生すれば「ひふみ神示の予言が~」とか好んで大騒ぎする人の気持ちもわからなくはないですし、ビジネスチャンス、自分が注目を浴びるチャンスでもあり、中には単に限られた視野しか持てない善意の持ち主の人もいますが、いずれにしても人間の心が正しい方向へ進めば全部楽に良くなっていくはずです。

 

 

ひふみ神示に「神示で知らしただけで得心して改心出来れば大難は小難となるのぢゃ、やらねばならん、戦は碁、将棋、位の戦ですむのぢゃ、人民の心次第、行ひ次第で空まで変ると申してあろがな、この道理よく心得なさりて、神の申すこと判らいでも、無理と思ふ事も貫きて下されよ、これがマコトぢゃ。」という一文がありますが、注目すべきは異常気象や病気や地震や食糧危機などの物質的現れではなく人間の心の方でなければいけません。

 

 

「人民の心次第、行ひ次第で空まで変ると申してあろがな、この道理よく心得なさりて、神の申すこと判らいでも、無理と思ふ事も貫きて下されよ」とある通り、人間の心次第で何でも幾らでも変わってきます。

 

 

出口王仁三郎が立替立直は心の立替立直だとよく言っていましたが、私もその通りだと思います。世界でどれだけの異常気象や天変地異が起きても、病気や戦争が起きてもそんなことでは世の中は立替立直にはならないはずです。

 

 

それらが収まった時にいる人間の精神発達レベルが今と変わらないなら、結局は時を経てまた同じことになり、それでは立替立直になっていません。あるいは仮に一度は地球人類が滅びても再び物的身体をまとって生まれてくる霊が今の人間と同じ霊的レベルであるならやはり今と同じことが起こります。

 

 

 

立替されるのも立直しされるのもまず人間の心です。これが成されたときに初めて、物質的な側面が新しく生まれ変わります。異常気象も病気の蔓延も戦争も貧困も、着ている服や住んでいる家や乗り物や社会のシステムまで何もかも変わります。

 

 

人間の心が今のままで物質的な側面だけで異常気象や天変地異や戦争や疫病などの人災さえ起これば立替立直になるというのは、物質的で一時的な意味ならそうかもしれませんが、100年も前から言われてきた立替立直しの本質はそこではないはずです。

 

 

純粋に物的な側面のみでの立替立直しがないと言っているわけではありません。物的な側面も必要であり、重要なのですが、あくまで霊が主で体が従であるべきと述べているまでです。

 

 

霊的な側面がしっかりしてくれば物的な側面は自ずから適切で適度な位置に落ち着きます。予言や物的な苦難を主体として霊的なことを扱うことは体主霊従であり、それが現状の混乱を生み出した一因となっています。霊主体従でなければいけないということは表現の差違はあれあらゆる霊的な書物で述べてられていることです。

 

 

 

私たち一人一人の心が立替立直されない限りは如何なる異常気象や天変地異や大規模な人災もただの表面的な現れに過ぎず、根本的な変化にはなりません。

 

 

 

そして今度起こるのは、根本的な変化のように思えます。何もかもが全部良くなるというのは地球から悪人が消えるということを意味しています。

地球圏に残る人間、地球圏を去る人間、色々いるでしょうが、どちらにしても世の中全体を良くするために頑張らねばなりません。

 

 

それが出来ないなら、物質世界である地上においては物質的な側面から立替立直しが発生し、後から人間の心や霊的な側面が立替立直されるということが起きてしまうのではないかと思われます。

 

両者は合わせ鏡ですが、物的な方法で人間を改心させる方法は相当キツイ、具体的にはこの世に神はないのだと人間達が呪い、先に死んだ人間が羨ましく思えるほどのとんでもない目に開いた口が塞がらないような人たちがたくさん現れてしまうと思われます。

 

 

それが可哀想だから洋の東西を問わず、大本神諭やひふみ神示にしろ、シルバーバーチやホワイトイーグルのような霊訓にしろ、霊界側からの呼びかけがあるわけです。