神の摂理は絶対にごまかせません。暴若無人ぼうじゃくぶじんの人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。」

無欲と滅私の奉仕的精神を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか」


牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・ 」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いておる言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私には分っております。私は、あなた自身がどう思うかと聞いているのです」

牧師 「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んできた人間と罪ばかりを犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師 「私は、生涯を真っ直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は───」

 ここでシルバーバーチがさえぎって言う。

 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」


牧師 「では悪の限りを尽くした人間がいま死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師 「しかし、罪を告白するということは誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が休まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」


牧師 「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、すべて我れに来たれ。汝らに安らぎを与えん〟 (マタイ11・28)」

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字どうりに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中にいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう」

牧師 「イエスは〝善き羊飼いは羊のために命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私はつねに〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

 

シルバーバーチの霊訓

 

キリスト教ではどんな悪事を働いても、どんな罪を犯してもただ主イエス・キリストを信じていれば天国へ行けると主張する牧師と、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないと言うシルバーバーチの対話です。

 

 

常識に照らし合わせて考えればシルバーバーチの言い分が正しいと感じるはずで、例えば凶悪犯罪者や多重債務者たちの罪や借金が「すみませんでした」の一言ですべてが赦されるとしたら人の道は成り立ちません。

 

 

裁判所も刑務所も要りませんし、悪事を積んで儲けたり、邪魔者を殺したり、返す必要がないわけですから借金した方が得です。真面目に生きる人間ほど損をします。

 

 

日本風に言うなら「ごめんで済んだら警察はいらない」ですが、こんな不条理が許されないからこそ人間の社会システムも一応は裁判所も刑務所もありますし、借りた金は返さねばなりません。

 

 

それでも人間の作り出したシステムには穴がたくさんあり、時には不条理に思えることがたくさんあります。不完全な人間の法では裁ききれないことがあるのは事実です。

 

 

しかし神の作り出した法に穴はなく、完全に完璧に因果応報が働きます。仙人系の書物では人間の法から漏れた犯罪者に山人や天狗が罰を与えるという話がいくらか出て来ますし、死後の世界において、あるいは再生後において必ず帳尻が合わされます。そのような話は枚挙に暇がありません。

 

 

私ともう一人がどうしても何かの事情で借金をせねばならず、私は苦労しながらも真面目にコツコツ返済するのですが、もう一人は「ごめん、返せないわ」の一言で返済が免除されるなら、不公平なわけです。

シルバーバーチに限らず霊的な書物というのは言われてみれば、いや言われなくても、そんなことは当たり前だということがたくさんあります。このように神の道は単純と感じることがあり、普通に倫理観に沿って生きて行けば良いわけです。

 

 

宗教ではやたら小難しい教義がたくさんあって、シルバーバーチはそういうことをしても些かも霊性は向上しないと述べていますが、難しいのは教義ではなく我欲を捨てることでしょう。

欲の皮が突っ張って人の道を外すのはよくあることです。

 

 

「神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております」とシルバーバーチは述べていますが、これは帰幽した霊が似たようなことをよく述べており、過去に犯したカルマやメグリが解消されるまでは上の境涯に進むことが出来ないそうです。

 

 

カルマやメグリを解消する方法は内容や多寡によって千差万別である者は霊界で善行を積み、別の者は再び人間へと再生します。

根底の国で苦しむ者もおり、妖魔たちに豚や牛や虫けらに変えられて使役される者もおり、動物となって再生する者もおり、実に多種多様です。

 

 

それを思えば生きている間に悪事を積むことほど馬鹿らしいことはなく、少しでも善行を積んで犯した悪事を相殺することでマイナスを減らすか、出来るならプラスに転じたいと考えるのが普通でしょう。

 

 

〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら神の道も人の道も成り立ちません。霊的な真理とはこんな風に単純なことばかりで、常識と照らし合わせても納得の行くことばかりです。

 

 

昔の人ならともかく、現代人にとっては特にそうであり、だからこそイエスを信じれば、免罪符を買えば、罪を告白だけすれば、南無アミダブツだけ唱えていればOK、天国・極楽へ行けるという宗教の主張が空しく響くのでしょう。常識に照らし合わせると宗教が滅茶苦茶言っているように聞えるからです。

 

 

シルバーバーチの言っていることの方が宗教よりもよっぽど健全で当たり前で常識的です。一人でも多くの人がこのような当たり前のことに気が付き、自分の人生で実践できるようになって欲しく思います。