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今回のポイント

・金持ちには試練として誰もが順番になるものだからそれを羨む理由も誇る理由もない。

・現世で金持ちでない人は過去世において金持ちだったか、これから金持ちになるかどちらか。

・お金を持つということは他者への愛を発揮し慈善を行えるかどうかの試練。

・富は社会の発展と救済のために善用される必要がある。

・富は神から一時的に預けられているだけ。

・富は慈善と献身の試練、貧は忍耐と辛抱の試練。

・金持ちは死後に与えられた富を私欲のために浪費したのか?慈善を行ったかの収支報告が必要。

・慈善を行わない金持ちは死後貧乏になる。

・慈善を行った貧乏人は死後幸福になる。

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(中略)

 

みなの善の為に富を役立たせる能力のない人々に、なぜ神は富を与えるのかと言う疑問が出てきます。しかしそこにも神の善意と英知の証が存在するのです。

神は自由意思を与えることで、人類が自分自身の経験によって善と悪の区別をつけ、自分の意志と努力の結果として善を実践するようになることを望んだのです。人類は、善や悪に必然的に導かれるものではなく、そうだとすれば人類は動物と同じく無責任で受動的な道具だということになってしまいます。

富は人間を道徳的に試すものなのです。しかし、それは同時に進歩のための強力な活動手段であるため、神はその富が長い間非生産的であることを望まず、そのためにいつでもそこから取り去るのです。

誰もが富を得、それを費やすために行動し、富のどのような使い方を知っているかを立証しなければなりません。

しかしすべての者が同時に富を所有することは数学的に不可能であるため、また、その上、
もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため、一人一人に富を得る順番があるのです。

 

この様に今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。その他の、今日所有する者たちは、もしかすると明日にはそれを所有していないかもしれません。富める者も貧しい者もいます。

なぜなら神は正義であり、一人一人が順番に働くように命じるからです。
貧困は、それによって苦しむ者にとっては辛抱と忍従の試練なのです。他の者にとって、富は慈善と献身の試練なのです。

ある人に見られるような富の悪用や、野心が引き起こす卑しい感情を見て、「あのような者に富を与えて、神は正しいのだろうか」と嘆くことには一理あります。確かに、もし人類にたった一度の人生しかなかったとしたら、地上の富のこのような分配を正当化するものは何も存在しません。

しかし、もし私たちが現世だけに目を向けるのではなく、その反対に、複数の人生全体を考慮するのであれば、全てが正義によって釣り合っているのです。ですから、貧しい者が神意を非難する理由も、

富める者を羨ましがる理由も、また富める者がその富によって自らを讃える理由もないことになります。


富が濫用されるとき、悪を防ぐのは法律や奢侈(シャシ)禁止令ではありません。法律は一時的に外見だけを変化させることはできますが、心を変えることはできません。そのため、そうした法律はつかの間しか持続せず、何時もその後には手におえぬ反動が訪れるのです。

悪の根源はエゴイズムと自尊心の中に存在します。いかなる種類の濫用も、人類が慈善の法によって支配された時、なくなることになるのです。 

 

 

スピリティズムによる福音-アラン-カルデック

 

霊の書で有名なアラン・カルデック霊媒の霊との対話です。シルバーバーチやホワイトイーグルはイギリスで主に活動して「白樺」「白鷲」のようなニックネームを用いましたが、アラン・カルデックの指導霊の名はわかりません。

このスピリティズムによる福音は複数の霊によって書かれているようです。

 

 

肝心の今回の内容ですが、地上時代に財産(現代では主にお金)に恵まれながらも、それを自分自身の楽しみや自尊心のためだけに用いて利己と保身のみを行った人間は必ず死後その帳尻合わせをさせられると述べられています。霊の書でも同じことが述べられていましたし、ほかの多くの霊的な書物でも述べられているところです。

 

 

スピリティズムによる福音では富には様々な目的があり、その物質的な側面は人類をより進歩向上させようという言わば起爆剤のような役割をしていると述べられています。

 

 

衣食住において豊かで快適な暮らしを望み、また自分の享楽のために人類が努力することで物質的な側面における人類の発明や産業は進歩しました。

 

エジソンが電球が発明するまでは人類は焚き火や蝋燭といった乏しい灯で夜を過ごしていましたが、現在では白熱電球やLED電球によって夜でも快適に過ごせます。この手の発明や産業に拘わった者はその報いとして富を得ます。現代ならamazonやyahooのようなネットや通販を用いたビジネスの発明が代表的です。

 

 

良い暮らしをしたいというのは人間の誰もが持つ当たり前の願望でしょう。人類が行ってきた、あるいは今も行っている発明や産業がなければ現在のような便利な暮らしなど望むべくもありません。

 

度を過ぎた贅沢は別問題として衣食住事欠くような生活をしていればもっと豊かになりたいと考えるのは当然のことです。

豊かになりたい、快適で安全な生活を送りたいという願望が原始人の段階から人類を現在のレベルまで引き上げました。それは物質的な側面が多く含まれますが、物質面も重要な要素であるために神は富というものを人類に与えています。

 

 

反面精神的な成長のための富の存在意義があります。

富は神から一時的に貸し与えられたものであり、それを善用して慈善を行い、社会を発展させ、本人の道徳心を進歩させるための一種のテストとして誰にでも順番に人間に与えられます。

 

 

もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため、一人一人に富を得る順番があるのです。この様に今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。

という文章はまさに科学が進歩し過ぎて豊かになり過ぎた人類が堕落していくというフィクションを連想させますが、お金を持った人間が私利私欲のみに走らないか?誘惑に負けずに他人への愛情をや親切心を育めるかどうか?の試練として富の存在を説いています。

 

 

金持ちの家に生まれる(前世での善行)とか、あるいは後天的に成功してお金を得る(現世での努力)というのは本人の行動の結果でもあるものの、結局は神の許し給うがゆえに起こることです。

 

 

生活していくのに必要以上のお金を持つとき人間にそれを自分自身の快楽のためだけに用いるのか、自分よりも困っている人や弱い人間を助けるために使うのかという選択肢が生まれます。

 

 

別に利己と保身と快楽追求を悪くいうつもりはありません。それはその人にとっては当然の行為であり、またその人の進歩向上のために必要な経験でもあります。

 


持っているお金が多ければ多いほど、自分自身の楽しみを犠牲にして他人を助ける隣人愛を発揮出来るか?試されていることになります。言い変えれば自分が誘惑や我欲に負けずに富の善用が出来るかどうかテストしたいと望んで生まれてきたわけです。

 

 

お金を独り占めし、自分の楽しみのためだけに使う人間は肉体的にはは大人でも霊的には未熟であり、玩具を独り占めして遊ぶ子供のような状態です。口先だけでなく、少しずつでも我欲を離れて他者への愛を発揮できるようになるためには実際に財産を持つ必要があり、そのようにして進歩向上のテスト・試練が与えられます。まさにお金は慈善と献身のリトマス紙と言えます。

 

 

口先だけで「お金を困っている人のために」などと綺麗ごとを言っても、いざ身銭を切るとなるとそれが出来ない人間は霊的には未熟であるので浄化仕切れていない物質性の強い霊です。

 

 

逆に貧しい家に生まれ、また一生懸命働いているにも拘わらず貧しい人間は忍耐や辛抱を試す試練であり、また過去世に行ったことへの償いでも場合もあります。

 

 

口先だけで「貧しくても耐えられる」などと綺麗ごとを言っても、いざ実際に貧困に身を置けば文句を言い辛抱出来ない人間は霊的には未熟であるので浄化仕切れていない物質性の強い霊です。

 

 

今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。というように順番でこのような試練が行われますが、金持ちの方が霊的な試練としては難しいように思えます。

 

 

少なくとも地球人を見ているとお金を得た場合に私利私欲に走りがちです。金持ちの多くは自分さえ良ければ良いという人が多く、全員がそうではないにしても全体の傾向としては地球人は未熟と言えるでしょう。

 

またお金持ちを羨む傾向もありますが、これも順番に誰もが経験することですので過去に既に金持ちとして生まれたか、あるいはこれからそうなるのかのどちらかなわけですから、貧しくても金持ちを羨む理由は何処にもなく、また自分の貧しさを嘆く必要もありません。金持ちも自分の富を誇る必要も執着する理由もありません。すべては神から人生の数十年間だけ貸し与えられた試験のための道具に過ぎないからです。

 

 

それぞれが試練や償いであるということがわからないまま、表面的な物質性のみに囚われている状態はあまり良い状態とは言えないでしょう。

 

 

しかし残念ながら自分の娯楽や楽さを捨てて自分よりも弱く困っている他人のために努力出来る人間は僅かしかいません。

 

 

詰まるところ金持ちでも貧乏人でも、その中間でも地上での人生は道徳心や知性の発達を目指す霊性向上の試練や過去世の償いや報償のための魂の修養なのです。

 

 

こう言っては何ですが、地上生活は仮初めであり、ある種のゲームみたいなものです。地上物質界に実在はありません。少なくとも私にはそう感じます。全部が影というか、バーチャルみたいです。

 

 

ただそれがあまりにも神の手によって完璧に出来ているため、人間が作ったゲームのような稚拙さを感じず、まるで現実のように見えます。

ある意味でゲームの中も現実ではあるのですが、霊の世界こそが実在・本体で物質の世界は仮想で幻影です。

 

 

物質世界にはそれなりに意味があり、必要でもあるのですが、この仮初めの僅か数十年しかない人生において我欲と利己に囚われて道徳心や隣人愛の発達を蔑ろにし、ひたすら自分の快楽や楽しみだけを追求する人間を見ていると残念にも思います。

もちろん積極的に悪事を行わないだけマシではありますが、毒にも薬にもならない駄菓子のような人生よりも、短期間で大きな進歩を遂げる方が絶対に良いはずです。

 

 

無駄にした人生も一つの教訓で次こそはしっかりやるぞという反省や意気込みに繋がるという意味では全くの無意味というわけではなく、むしろ回り道をたくさんして失敗を重ねてきたからこそより立派になるということもあり得るわけですが、だからといって現世利益のみを追求し、我欲と利己のみを一生追い続けるのは不幸の種を蒔くことにしかなりません。

 

 

多くの霊的な書物で説かれるように生前に作り上げた本人の性格・行った善行・身に付けた知性や知識・神への認識などの諸要素によって、死後どんな境涯に進むかが決まるので、地上時代になるべく多くの善行を積み、また自分自身の道徳心や知性を発達させることがなによりも大切だと思います。