今回のまとめ

 

・悪は神によって人間の進歩向上に必要だから作られた役割。

・人間の言う悪は神から見れば悪とは限らない。

・神が作った人間の進歩向上に必要な善悪の仕組みに逆らうものが悪。

・神が作った善悪のシステムを悪く言うということは神を悪く言うのと同じ。

・人間の言う善悪に囚われず神と同じ視点を持って神と息を合わすことが大切。

 神と息が合わなければ神の道具にはなり得ない。

・現に悪を乗り越えることで人間も社会も成長している。

 

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まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。

 

 

我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。

 

 

人が悪く思へたり、悪くうつるのは己が曇りてゐるからぞ。

 

 

今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。

 

 

この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ、早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ。

 

 

 

すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ、今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからすのざから、この世の悪も善も皆御用と申してあろが。身魂相当の御用致してゐるのざぞ、仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変るのざぞ、神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ、その上で人に此の道伝へてやれよ、無理するでないぞ。

 

 

悪を食ふて暮さなならん時近づいたぞ、悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶってゐること多いぞ、だが悪も大神の中に生れたものであることを知らねばならん

 

 

善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地ぢゃとくどう知らしてあろが。何んなよいこと喜ばして知らしても、聞かせても、今の臣民人民 中々云ふこときかんものぢゃぞ 悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ 善も悪もないのざと申してあらう。善悪はあるが無いのざと申してあること判りたか。自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄えるぞ

 


 

宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。

 

 

ひふみ神示

 

 

ひふみ神示には「御用の悪」「悪抱き参らせよ」「善も悪もない」「悪も大神の中に生れたもの」「この世の悪も善も皆御用」「まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もない」「人が悪く思へたり、悪くうつるのは己が曇りてゐるから」「マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふ」などのように悪に関する記述がたくさんあります。

 

 

 

その意味するところは人間のいう悪は神が作った社会や個人を進歩向上させるためのシステムであって、憎むべきものではないということです。だから個人的な利害得失や感情面や限られた地上的な視点から恨んだり憎んだりしてはいけないし、人間のいう悪は神が社会や個人を進歩向上させるために作ったシステムということがわかれば、それは神の視点を持ち、神と息が合うことになるということです。

 

 

それを理解することはひふみ神示によく登場する「真釣り合わせる」ということになり、「悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ。」とあるように身魂の洗濯にもなるわけです。

 

 

 

自分を善だと思い、他者を悪と感じるとき必ずそこに怒りや憎悪や恨みなどのマイナス感情が生まれます。

対象や関係性が個人レベルであれ国家レベルであれ同じことであり、こういったマイナス感情は本人の周りにある種の壁を作り善霊が近づけなくなります。

 

また怒り、憎悪、恨みなどを持つ同種の霊と感応してしまいますが、このような霊が善霊であるはずがありません。

 

 

少なくとも私の知る限りですが、高度な神霊に人間的な意味での個人的な利害得失に基づく怒りはありません。そもそも人間的な個性を持った存在であるかどうかも疑わしいのが高度に進化した霊ではありますが、高度に進化した霊は人間よりもずっと物事を深く理解しているためか地上で起こっているあらゆる種類の残虐さや冷酷さに対して憐れみを感じることはあっても怒りや恨みや憎悪の感情を持つことはありません。

 

 

 

これは驚愕に値することではあり、人間から見てどうしても許せないことや完全な極悪にしか見えないものがなんと究極神の深き叡智による完璧な配剤であり、より高い視野に立ったときにそれが必要であるということです。

 

 

 

人類が過去に、あるいは現在もリアルタイムで行っているあらゆる種類の残虐な行為が必要だから行われているというのは地上人には理解し難い部分でしょう。

 

 

 

私どもが霊的に向上しまして世俗を超脱しますと、驚くことなのですが、闇と光は実際は一つなのです。闘争はなく、上の方では調和があるのです。というのは、光と闇は一方は他方の反映なのです。生命とは闇が無ければ成り立ちません。闇は進歩に必要です。否定面があって初めて積極面があるのです。その役割をするのです。

 

天使と妖精 ホワイトイーグル

 

 

実際問題として極悪の邪神・邪霊は多数存在して、ひふみ神示にも登場しますし宮地水位の異境備忘録にもそのことは記されています。地上の悪の暗躍を見ても真の悪魔がいないとはとても思えませんが、それらもまた全知全能の配剤によって地上の進歩のために必要だから作られているわけです。

 

 

少なくとも高度の神霊はこれを理解して、言い方を変えれば真釣り合わせています。人間でもそのような段階に到達した者は神霊と同じ考えを持っているので、それ相応の神霊の感応があります。

 

 

私個人としてもこれを知ったときに多いに驚きました。善も悪もすべては全知全能の愛に基づきすべて進歩向上のために作られているというのは多くの地上人にとっても信じられないことであり、また驚くべきことであるはずです。

 

 

地上では色々な悪人がいて悪さもしています。地上人的感覚だと、もはや悪さと呼ぶには度しがたい極悪非道の悪魔もたくさんいることはいるのですが、彼らもまた全知全能によって生み出され、また愛の眼差しを注がれており、地上を進歩させるために一つの役割を担っている言ってみれば兄弟や仲間なわけです。

 

少なくとも霊的にはそうであるこというです。地上物質界でどれだけ酷いことが起ころうとも、例えるならそれは人生における幼少時代の僅か数日間における出来事に過ぎず、そこだけを取り出して人生のすべてを不幸だとは言うことは出来ません。

 

 

死後も永遠に続く生命において、地球で起こることは全体としては小さなことであり(地上人にとっては大事ですが)、神と同等の愛や視点を持つことがこれからは必要になってくるのかもしれません。

 

 

ひふみ神示には「イシヤ(フリーメソンやイルミナティのこと?)と手を握ること」とか「悪と悪と、善と善と、悪と善と、善と悪と握る手、持ちて御座れよ。心持ちて御座れよ。びっくり嬉し箱あくぞ。」とか「外国とは幽界の事ぞ。外国と手握るとは幽界と手握る事だぞよ。」などと書かれていますが、人間のいう善と悪を両方上手く活用しているのが神のようです。

 

 

悪がその実、悪ではなかったと気付くということは自分から恨みや憎しみが消えるということを意味し、それは霊性の向上を意味します。この点はひふみ神示で最も人間に理解し難い部分であり、また口先ではわかったつもりでも本心からはそう思えない部分でしょう。しかし実際にこの世に悪はないのです。言い方を変えると憎しみや恨みの対象としての悪はこの世にはないとも言えます。