出羽国(現在の山形県と秋田県)の羽黒山の東北の麓の柏崎という谷間に日の沢というところがあります。ここに行者の形をした石像があって霊験があると評判でした。

足の痛みがある人はその石像の足を縄で縛って「私の足の痛みを直してくれたらこの縄をほどきますから痛みを治して下さい」と願掛けすると霊験があります。

 

手の痛みや首の痛みを患う人もその石像の手を縛り、あるいは首を縛って願掛けをするのですが、悉く霊験があって常にその石像は縄で縛られ緩む暇なく、幽界では非常に苦しんでいました。

 

ある人が「この像は一体何の像なのですか?」と尋ねると、この像は慶安年中(1648年~1652年)に江戸で由井正雪丸橋忠弥などが幕府に対して反逆を企てた時(慶安の変、江戸幕府の転覆を謀った事件)の一味である熊谷三郎兵衛(熊谷直義)の石像とのことでした。

 

 

この幕府転覆事件はすぐに明るみに出て由井は静岡で自害し、丸橋は江戸で死罪になりましたが、熊谷三郎兵衛ただ1人は形勢不利と見るやあっという間に軍用費を持ち逃げして、北国の出羽の山に逃げ込みました。彼は元々逃げるのが得意で、当地の御堂前の豪家である三郎左衛門という人を頼って行者となり、自ら円海上人と名乗り、月山、羽黒山、湯殿山で毎日修行を積み、結局彼一人だけは幕府から罰せられることなく、その地で人生を終えました。

 

 

この石像は熊谷三郎兵衛の自作の像で、この男は現世での刑罰まぬがれたのですが、死後は幽界で長く縄で縛られる刑で苦しめられているそうです。天網恢恢疎にして漏らさずとはまさにこのことです。

 

 

奇談雑史 宮負定雄

 

シルバーバーチの霊訓などでも「自分の行ったことは結局自分に返ってくる」と述べられており、犯した罪から存命中は上手いこと逃げ切れても、死後の世界で苦しめられるのですべては平等であるということが良く述べられています。

 

イエスも種まきの例えでこのことを例えており、ひふみ神示でも出口王仁三郎でもみんな同じことを言っています。いわゆる因果応報というヤツで、生命を生きている間だけの短い期間で見れば不公平なことがたくさんあるでしょうが、死後の世界も含めてトータルで見れば完璧に釣り合いが取れており、シルバーバーチは自分は神から不公平な扱いを受けたという人と一人も会ったことがないと述べています。

 

 

今の世の中を見渡せば不公平に見えることがたくさんあり、悪事を働いても上手く逃げ延びてしまう人や汚いことをして財産を築いた人が幸福そうに見えることがありますが、それは極短い期間の一時的なことで結局はすべてバランスが取られます。

 

 

人間が因果応報が実在するということを知れば、間違いなく世の中は素晴らしいものになるでしょう。なぜなら悪いことでも良いことでも、自分が行った行為はそのまま自分に返ってくるからであり、まともな頭があれば普通は良いことのみに専心するはずだからです。

 

 

いつどうやって返ってくるかは、物質世界の条件やタイミングがあるのですが、即座の場合もあれば数年、数十年、あるいは死後の場合もあり、その形も様々です。

私たちのいる物質界では「なんとなくそういうものがある(のかな?)」と感じている人は多そうですが、100%信じて人生を生きている人はまだまだ少ないように思えます。

 

 

本当に信じていたら、ちょっとのことでも悪いことや自分の良心に反することは出来ないはずですし、過去に自分が悪いことをした自覚があるならばその悪事を帳消しにするために人に親切にして、善行を積むはずです。

 

 

人間の世界にはこのバランスリストを知る方法がないため、自分の立ち位置がよくわかりません。地上時代に社会的地位が低く貧乏であったとしても霊的には高いレベルの人はいるでしょうし、逆もあります。

 

 

死後の世界の富貴は地上時代の善行や悪業が寸分違わず現れるため、生前社会的地位が高い人が悪事のために低い境涯に置かれると侮辱されたように感じ大変憤ることがしばしばあり、また逆は戸惑う場合が多いようです。

 

 

地上世界を本当に良くしようと思うなら、まず最低限の土台として世界は自分たちのいる物質界だけでないこと、死後も人生は続くこと、死後の世界での自分の境遇は存命中の行いによって決まることなどを地球人が認識することだと思います。

 

 

やらなければいけないことは山ほどありますが、この最低限の土台すらないのが現状であり、まずはこのことが一般常識になるようにしなければなりません。ひふみ神示にしろシルバーバーチにしろ、そういったことに多いに役立っていますが、まだまだ地球全体で見れば十分に知れ渡っているとは言えないのが現状であると思います。