遭遇する問題の一つ一つをあなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つ一つが挑戦なのです。ハンディキャップの一つ一つが挑戦なのです。

日常生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかしいかに強烈でもいかに強大でもあなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのはそれにどう対処するかその心の姿勢です。

 

自分の霊性の発達においてどういう体験が大切であるかの判断はあなた方自身には出来ません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないためにあなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。

 

ですから体験の価値云々をしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服出来ます。克服することに霊性が強化されていきます。体は不完全であり弱さを持っております。あまりのストレスに負けて体調崩すことがあるかもしれません。

 

しかしあなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は潜在的には完璧です。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すればきっと克服できます。

 

シルバーバーチの新たなる啓示

 

 

物的肉体を持った地上生活は永遠に続く霊としての生活のごく一部であり、様々な体験を通して霊性を磨く場であるとシルバーバーチはよく述べています。

 

地上で人間が遭遇するあらゆる種類の障害、困難、貧困、病苦などは因果律や本人が地上に生まれてくる前に自分への試練や償いとして納得の上で選んで生まれてきたとも述べています。

 

 

似たような内容は何度も何度も述べられており、彼自身もこれが自分を指導している高級霊界からの教えの中枢であり、最も重要なことの1つであると強調しています。

 

 

 

【質問】

霊の進化は生命の旅における苦難と葛藤を通して得られるとおっしゃっていますが、同時にその進化に終わりは無いとも(シルバーバーチが別の所で)仰っています。そうなると魂の安らぎと平安は永遠に得られないということになりませんか?

 

【シルバーバーチ】

そういう疑問は世俗的な表面と霊的な内面との違いが理解できていないことから生じます。日常生活では葛藤と困難と闘争に明け暮れていながら、内面的には平安と安らぎに安住することが出来ます。

 

俗世では疾風怒濤の中にあっても霊的な悟りは平静そのものであり得るのです。

 

安らぎは内面から出てくるものです。外からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発しさえすれば、泉の如く霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平安、安らぎといったものがもたらされます

 

 

霊性が磨かれるに従って、具体的にはエゴが減り人間性が円熟し、また善行を積むに従って、心の平穏、心の平和を内面に感じることが出来るようになってきます。シルバーバーチの述べているように対外的には忙しい世の中の荒波の中にいたとしても、内面的には平和や安らぎがあるということがあり得ます。

 

両者は全く別物であり、物質的な豊かさや幸福と、精神的な豊かさや幸福は必ずしも一致しません。金持ちでも不幸な人がいれば、貧乏人でも幸福な人がいます。心の平安や幸福は外からではなく内面から湧き出てきます。

 

 

シルバーバーチはこれを下記のように説明してます。

 

霊性を磨く道は容易ではありません。困難の連続です。

奥深くに踏み入るほど 平坦な人生にはない体験ばかりとなり孤独を味わうようになります。

 

しかしその一方で 内面的にはそれに見合っただけの埋め合わせ、

ーーーー霊性の成長、悟り、背後霊との結束の強化、インスピレーションの増幅、直観的な価値判断力の向上、といったものが身につきます。霊的な成長の成就というのは、そうしたものを身につけることを言うのです。

 

 

個人的な経験としては全くシルバーバーチの言うとおりで、おそらくは今後もそうであると思っていますが、高いレベルに達すれば達するほどそれに見合った試練・困難・課題が与えられ、さらに高いレベルに引き上げようとする霊側からの働きかけの連続となります。

 

 

人間的にはつらい、苦しい、悲しい、悔しいなどその人にとって必要な様々な試練を通して色々な経験をしていきますが、その過程を愛と慈悲心と自己犠牲と自己研鑽で乗り越えていく中で背後霊との結束が強化されて、インスピレーションや直感力、勘、あるいは何らかの霊的な能力が開花していきます。

 

 

個人的には単純な能力的な側面だけを磨くような訓練よりも、人生においてその人の人間性を磨くような試練を乗り越える方が霊性の成長には繋がると感じています。

 

例えばスポーツ、芸術、ビジネスなど何らかの分野で高い能力を発揮するのと同じ意味で霊的な技術(霊視や霊聴や念力や予知や幽体離脱など)を瞑想とか精神統一などの訓練で磨いても、人間性が未熟なままの人がいます。

 

 

諸分野では大家、一流と呼ばれるような人でもエゴの塊で劣悪な人間性や悪魔に付け入られる弱い心を持った人がいるわけですが、単純に技術だけに目を向けるよりも精神的、人間的な成長を通してエゴを減らし、無条件の愛を学び、善行を積む方が良いように思えます。ホワイトイーグルも同じ事を述べていますが、その過程で本人が望む望まないに拘わらず霊的な能力というのは発現していきます。

 

心では別に望んでいなくても、自然にその人の霊性の進歩に応じた能力が開花していくわけです。

 

例え世俗的な意味での苦闘や荒波の中で生きていても、内面的な心の平穏、心の平和を持てるのは、霊的に進歩することによって内面的な高級霊との繋がりが深まるためでしょう。

 

既に平和や平穏に満ちた高い境涯にいる霊と繋がっているということは、自分もまた同じ境涯に魂の籍を置いていることになります。

 

 

ひふみ神示に「むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。」とありますが、これも同じくそういう霊界と繋がっていて、自分もそういう境涯に魂の籍があるからです。

 

 

当然死後は自分の魂に見合ったそれぞれの境涯に赴きます。

 

 

自分さえ良ければ他人なんてどうでも良いというエゴや自分の楽しみや利益だけを追求して他者への親切心や奉仕を全く考えない自己中心的な人間は地獄と繋がっており、地獄に心の平穏、心の平和がないので、物質的に豊かであるかどうかに関係なく、その人にも心の平穏、心の平和がありません。高い社会的地位や財産を持っていても心が不幸な人間は大抵この種の人間です。

 

 

逆にエゴを捨てるように努力し、無条件の愛を持てるように努力し、親切心や愛情を持ち、善行を積む人間は、やはり同じくその心は既に天国に繋がっていますので、天国に心の平穏、心の平和があるため、物質的に豊かであるかどうかに関係なく、その人にも心の平穏、心の平和があり得ます。

 

 

自分の心を見つめて見た時に、その状態によって自分が天国に籍を置いているのか、地獄に籍を置いているのかがわかるはずです。その心のままに死後は自分の心の状態に見合った境涯に進みます。そこを天国と呼んでも地獄と呼んでもどちらでも構いませんが、大切なことは霊としてどうであるかです。

 

 

イエス風に言うなら「まず神の国を求めよ」です。ひふみ神示風では「嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る」とありますが、エゴと物質的豊かさだけを求め、人間性の成長や愛や奉仕や親切心に取り組まない人間は地上時代に「嬉しくて苦しみ」、愛と奉仕と親切心という神の道を歩む人間は「苦しくて喜ぶ」わけです。

 

 

具体的に生きている時は「(地上時代は)嬉しくて(死後)苦しむ者と、(地上時代は)苦しくて(死後)喜ぶ者と出て来る」という風にも言えますが、別に死後まで待たなくても生きている間に、良いまたは悪い報いが来るケースもあります。それは生きている間か死後かに関係なく、必ず因果律は正しく働き、自分の蒔いた種を自分で刈り取ることになります。

 

 

 

こういったことは極めて単純なはずなのですが、人間がこれを本当の意味で理解し、実践していくにはまだまだ時間が掛かりそうです。

しかし、いつか必ず成就します。その日を楽しみに今は頑張るしかありません。