昔、江戸のある所に八幡宮別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと)があり、そこでは昔からお神酒を一升ずつ神前に供えることが習わしとなっていました。

 

ある時期にとてもドケチで有名な坊主が別当(別当寺の長)になり、その坊主は「毎日一升ずつ供えるのは勿体ないからお供えを半分にしよう、一年通して考えればかなりの得になる」と言い、毎日一升ずつ備えるお神酒を半分に減らして五合ずつお供えするようになりました。

 

それからしばらくすると、参詣人が半分になってしまい、奉納物やお賽銭なども悉くすべてが半分になって大変貧しくなってしまいました。

 

このことにドケチで有名な別当の坊主は驚愕し、神意を畏み、自分の過ちを悔やみ、神様にお詫びを申し上げ、古くからの習わしの如く毎日一升のお神酒を供えるように戻しました。

 

すると参詣人も元通りになり奉納物やお賽銭なども悉くすべて元通りになって、再び賑わうようになりました。

 

このことからわかるように、神様への供物をケチって減らすことは非礼の至りと言えます。すべて神事に倹約ということはなく、神事に倹約するのは下人のやることと言えます。

 

 

奇談雑史 宮負定雄

 

 

奇談雑史は平田篤胤の門下である宮負定雄(1797年ー1858年)が当時の日本にあった面白い話を集めたものです。

 

 

主に神様や霊に関わる摩訶不思議な話がほとんどで、有名な寅吉物語や島田幸安幽界物語なども紹介されていますが、その量は非常に膨大で大体1ページ~3ページくらいの短いものが200近くも収録されています。

もう少し時代が下れば宮地水位や長南年恵なども紹介されていたかもしれません。

 

 

以前の記事でお供えはちゃんと届いているという事を書きましたが、似たような話はたくさんありほかにも奇談雑史の中で紹介されています。

 

 

物質界で型としてお供えをすれば、霊界では想念の延長によっていくらでも増えるけれど、型がなければどうしようもない、ということを以前書きました。

再び掲載してみます。

 

 

霊界れいかい想念さうねん世界せかいであつて、無限むげん広大くわうだいなる精霊せいれい世界せかいである。現実げんじつ世界せかいすべ神霊しんれい世界せかい移写いしやであり、また縮図しゆくづである。霊界れいかい真象かたちをうつしたのが、現界げんかいすなは自然界しぜんかいである。ゆゑ現界げんかいしようしてウツシふのである。例之たとへば一万三千尺いちまんさんぜんしやく大富士山だいふじさんわづ二寸にすん四方しはうくらゐ写真しやしんにうつしたやうなもので、その写真しやしん所謂いはゆる現界げんかいすなはちウツシである。写真しやしん不二山ふじさんきはめてちひさいものだが、その実物じつぶつ世人せじんごとく、駿すんかふ三国みくににまたがつた大高山だいかうざんであるがごとく、神霊界しんれいかい到底たうてい現界人げんかいじん夢想むさうだになしざる広大くわうだいなものである。わづ一間いつけん四方しはうくらゐ神社じんじや内陣ないぢんでも、霊界れいかいにてはほとん現界人げんかいじん十里じふり四方しはうくらゐはあるのである。すべ現実界げんじつかい事物じぶつは、いづれも神霊界しんれいかい移写いしやであるからである。わづか一尺いつしやくらずのちひさい祭壇さいだんにも、八百万やほよろづ神々かみがみまた祖先そせん神霊しんれいあま狭隘けふあいかんたまはずしてしづまりたまふのは、すべ神霊しんれい情動じやうだう想念さうねん世界せかいなるがゆゑに、自由自在じいうじざい想念さうねん延長えんちやうるがゆゑである。三尺さんじやく四方しはうくらゐほこらてておいて下津岩根したついはね大宮柱おほみやばしら太敷立ふとしきたて高天原たかあまはら千木高知ちぎたかしりて云々うんぬん祝詞のりと奏上そうじやうするのも、すこばかりの供物くもつけんじて、横山よこやまごと八足やたり机代つくゑしろ置足おきたらはしてたてまつ云々うんぬんとある祝詞のりと意義いぎも、けつして虚偽きよぎではない。すべ現界げんかいはカタすなはかたち世界せかいであるから、そのほこら供物くもつまへべた不二山ふじさん写真しやしんすべきものであつて、神霊界しんれいかいにあつてはきはめて立派りつぱほこらてられ、また八百万やほよろづ神々かみがみ知食きこしめしても不足ふそくげないほど供物くもつとなつてるのである。

 

(出口王仁三郎 霊界物語  第21巻  総説)

 

 

玉串は神様に衣を献るのである。すべて霊界に於ける事象は現界に於てをせねばならぬので、玉串を捧げてさへすれば、霊界では想念の延長で、立派な種々の色の絹と変じて、神様の御衣となるのである。松の梢につけて献るのであるが、其松は又想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。
 斯のやうに現界でをすれば、霊界では幾何でも延長するのであるが、がなければどうする事も出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に頒つて「晴れ」をせらるることは嘗て話した通りである。

 

(出口王仁三郎 玉鏡)

 

 

現界にて常に行き通ふ山も霊魂の脱て行く時は一の仙界と見え、又肉体にて行く時は仙界のありとしも思はれず、三間ばかりの山の頂も霊魂のみにて行きたる時は百里もあるやうに思はれ、小き祠も数百畳の宮殿とも思はれ、狐狸にばかされた思ひをする事もあり。

 

(異境備忘録 宮地水位)

 

一握りの僅かな米が米俵数個分に増えたり、地上では1メートルもない小さなお宮が霊界では数百メートルの立派なお宮になっているなんてことは当たり前のようにあります。

 

 

こういったことはケースバイケースなのかもしれませんが、例え半分でも御神酒をお供えしているのだから「想念の延長」で増えるんじゃ無いのか?と思うかもしれませんが、思うにその想念そのものがケチった考えに根ざしているので、やはり良くないという話だと思います。

 

 

またもう一つ考えられるのは、比較的地上に近く物質性の強い幽界の神(霊)たちは想念の延長の力弱く、ほとんど地上と変わらないような境涯では一握りの僅かな米が米俵数個分に増えたりすることがないように、お酒も増えたりはしないため、現実問題として向こうに届くお酒が半分になってしまっているというケースも考えられます。

 

 

いずれにしても、今も昔も真心一つが最も大切であるのは変わりないはずです。この手のことはよく述べられているのでいくつか引用してみます。

 

 

神に捧げるには自分に与えられたものの中から捧げねばならん。むさぼり取ったり横取りした自分の物で無い物儲けたカスを神に捧げて威張っているがそれは捧げ物にならん。神は受け給たまわらんぞ。泥棒のお残り頂戴は真っ平じゃ。自分のもの先ず捧げるから弥栄えるのぞ。お蔭万倍間違いなし。

 

(ひふみ神示)

 

 

神詣でには矢張り真心一つが元手でございます。たとえ神社へは参詣せずとも、熱心に心で念じてくだされば、ちゃんとこちらへ通ずるのでございますから……。

 

(小櫻姫物語)

 

 

 

 御玉串おたまぐし差上さしあげるに上書うはがき連名れんめいですること神様かみさま御無礼ごぶれいあたる。一人ひとり一人ひとりつつんで丁寧ていねいにちやんといて差上さしあぐべきもので、神様かみさま非礼ひれいをうけたまはぬ。金銭きんせん多少たせうかかはるのではない。ただ自分じぶん赤心まごころささぐればよいのである。長者ちやうじや万燈まんとう貧者ひんじや一燈いつとうことわざがある。ひとおのおの身分みぶん相応さうおうそのベストをつくすべきものである。一円いちゑんづつあはしてつつむなどことは、想念さうねんすでただしくない。相談さうだんなどすれば、いやでもさねばならぬと不純ふじゆん気持きもちこんじてるから、神様かみさまけつしておけにならない。また実意じつい丁寧ていねいまこと親切しんせつ、これがかみをしへであるから、連名れんめいなどことは、丁寧ていねいことおいけてる。これまた神様かみさまのおさぬのである。本宮山ほんぐうやまのおみやてたときでも、不純ふじゆん想念さうねんこんじてたおみやりこぼたれても、栗原くりはらさんがじゆん気持きもち一人ひとりてさしていただいた神饌所しんせんじよ燈篭とうろうとだけはのこされたではないか。神様かみさま搾取さくしゆ強奪がうだつけつしてなさらぬ。すべ神様かみさまささぐるものはじゆん気持きもちでなくてはならぬ。

 

(出口王仁三郎 三鏡)

 

要するにお供えで一番大事なのは気持ちということで、金額や物量は地上人から見れば問題かもしれませんが、神霊にとってはそうでなくそれが心からものであるかどうかが重要であるようです。

 

これは普通に常識で考えればわかることで、総資産一兆円の実業家が出す1万円と貧乏学生が出す1万円は全く価値が違います。身分相応にやれば良いことであり、小櫻姫様風に言うなら「真心一つ」が重要であるはずです。

 

出口なお刀自が初めて艮の金神を祀ったときは段ボールで作ったお宮で祀ったと何かの本で読んだことがありますが、それもきっと心からのものだったのでしょう。

 

ひふみ神示に「不和の家、不調和の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。」とありますが、霊にとっては物質的なことよりも心の方が問題です。

 

 

出口王仁三郎は連名でやると、○○さんは1円、□□さんも1円なら、自分はそんなに出したくなけれど世間体を考えると自分も1円出さなきゃ…みたいな気持ちでは意味がない、神様は強奪や搾取のような真似をしないと述べていますが、これもその通りでしょう。

 

 

中には金を全部捨てろとか、財産を全部供物として供えろという邪神もいますが、こういうのは人間の常識で考えれば、どう考えてもおかしいわけで、その人の真心に沿い、身分相応にやれば良いのだと思います。

 

 

ケチるのも良くないですが、身分不相応に自分の経済状況が苦しくなるほどのお金や物をお供えするのもまた良くありません。

何か迷うことがあれば、常識と真心の2つで常に判断すれば良いのではないかと思います。