神が世界の王になる。てんし様が神と判らん臣民ばかり
天地の先祖、元の神のてんし様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。
臣民の生命も長うなるぞ、てんし様は生き通しになるぞ、御玉体(おからだ)のままに神界に入られ、またこの世に出られる様になるぞ、死のないてんし様になるのぞ、それには今のやうな臣民のやり方ではならんぞ、今のやり方ではてんし様に罪ばかりお着せしてゐるのざから、この位 不忠なことないぞ、それでもてんし様はおゆるしになり、位までつけて下さるのぞ、このことよく改心して、一時も早く忠義の臣民となりて呉れよ。
てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。
何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、
この方は世界中丸めて大神様にお目にかけるお役、神の臣民は世界一つに丸めて てんし様に献げる御役ぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ。てんし様 うつり願ふ時近づいて来たぞよ。
神力が九分九厘まで負けたようになったときに、マコトの神力出して、グレンと引っ繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめて治しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ
てんし様拝みてくれよ。てんし様は神と申して知らしてあろがな、まだ判らんか
てんし様まつれと申してあろが。天津日嗣皇尊大神様とまつり奉れ。奥山には御社造りて、いつき奉れ。皆のうちにも祀れ。天津日嗣皇尊 弥栄ましませ、弥栄ましませとおろがめよ。
元津大神、心の中で唱え奉り、皇尊唱え、次に声高く天津日嗣皇尊大神唱え、天のひつくの大神と唱え奉れ
ひふみ神示
ひふみ神示の「てんし様」は如何なる存在なのか?というのはよくひふみ神示を読まれる方の間で話題になっているようです。
私としてはてんし様というのは純粋に天皇陛下の御事の場合、そして古事記にあるが如く天津日高日子番能邇邇芸命様の御事、あるいはさらに高位の天地の祖である元の神・天照皇大神様を指す言葉なのかもと思ったりします(ひふみ神示は8通りに読めるというので)
まず「天地の先祖、元の神のてんし様が王の王と現はれなさるぞ」と述べられているので、後述に天子さまや天使さまと読み、天皇陛下や皇孫邇邇芸命のことかも?と述べていますが、「天地の先祖」と述べられていますので、これはひふみ神示や大本神諭などに述べられていることから普通に考えれば天照皇大神様の御事となります。
いくら皇孫邇邇芸命や天皇陛下が偉いと言っても、天地の先祖というのは言い過ぎです。この文章だけから判断すれば、宇宙の大元霊天御中主之大神の全徳を円満具足に具備させ給う天照皇大神様(別名大国常立尊様)としか考えられません。
この方は世界中丸めて大神様にお目にかけるお役、神の臣民は世界一つに丸めて てんし様に献げる御役ぞ。
という一文も天祖であり天の大神様である天照皇大神様(大本では五六七大神とも言っていますが)、国常立尊様が立て替え立て直しをして天の大神様にお目に掛けるという言い回しは非常にたくさん登場します。
この場合「大神様」と「てんし様」は表現が違うだけで、国常立尊様が地上の修理固成を終えて天照皇大神様にお目に掛けるというほかの部分と整合性がとれるため、てんし様=天照皇大神様と受け取れます。
「てんし様が神とわからん臣民ばかり」というのも天照皇大神様が本当の神であるとわかっていない臣民ばかりということになり、ほかのてんし様の部分も理解出来る部分がたくさんあります。
てんしさまを最高神として祀れ、というニュアンスの部分はたくさんありますが、てんしさま=天照皇大神様なら全部納得がいきます。
「何もかもてんし様のものではないか」というのも万物は神の物という風に受け取れますので、後述の皇孫邇邇芸命様は途中の神様なので、天照皇大神様を差し置いて何もかも皇孫邇邇芸命様のものではないか、だとちょっと違うように思えます。
「天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ。てんし様 うつり願ふ時近づいて来たぞよ。」は霊界物語に登場する天の大神様が地の大神様である国常立尊様が御引退なさるときの約束を連想させます。それは下記のようなものです。
さて(天の)三体の大神は国祖にむかつて、
『貴神は我胸中の苦衷を察し、自ら進ンで退隠さるるは、天津神としても、千万無量の悲歎に充たさる。されど我また、一陽来復の時を待つて、貴神を元の地上世界の主権神に任ずることあらむ。その時来らば、我らも天上より地上に降り来りて、貴神の神業を輔佐せむ』
と神勅厳かに宣示したまひけり。
天の御三体の大神様は一神にして三神、三神にして一神と述べられており、天照皇大神様は天の御三体の大神様でもありますので、昔の約束を果たすために天の大神様が地上に降りて立て替えた手直しを補佐する時が近付いたとも受け取れます。
地上レベルで取るなら天皇陛下の遷都とも取れるので、この辺りは8通りに読めるというのを連想させます。
ちなみにてんし様という言葉はひふみ神示に散見されますが、最初の方ほどたくさん登場し、後ろにいくと見かけなくなります。
次にひふみ神示は8通りに読めると書いてあることを踏まえて、原文になんと書いてあるかはわかりませんが、「てんしさま」の原文における書かれ方が場所によって違って、意味も異なる意味でてんしさまと書かれているのではないか?と思う部分もあります、
てんしというと天子、天使という文字が真っ先に浮かび上がり、天子という名称は古代でも近代でも現代でもあまり日本では一般的な天皇陛下を指す名称ではないように思えますが、一応天皇陛下を指す古い言葉であり、ひふみ神示からもそう読み取れることがあります。
ほかにも古代日本では「おおきみ(大王)」、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(皇尊)、すめみまのみこと(皇御孫命)など様々な呼ばれ方をしてきました。
特に天子である天皇陛下は天照大御神様の御神勅により、初代の皇孫邇邇芸命様の代から地上世界を治めるので「
「
(津は助詞の「の」、嗣ぐは継承するという意味です。)
ひふみ神示に限定するならば「てんし」と音読みで「皇尊」と「天津日嗣皇尊大神」という用語は同じような意味で、また近しい意味で使われているようであり、この3つは同じ存在を指しているように読める部分とそうでない場合があります。
例えば「神力が九分九厘まで負けたようになったときに、マコトの神力出して、グレンと引っ繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめて治しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ」という文からだと普通に読めば日本の天皇陛下のことを指しているように思えます。あるいは日本で祀られている一番偉い天照大御神様のことかもしれません。
しかし「てんし様まつれと申してあろが。天津日嗣皇尊大神様とまつり奉れ。」という一文は「てんし様を天津日嗣皇尊大神様としてまつれ奉れ」という風に取れ、この場合はてんし様と天津日嗣皇尊大神様は同一の存在と受け取ることが出来ます。
天津日嗣皇尊は天照大御神の御神勅により、地上を治めるという意味であれば皇孫邇邇芸命様の御事にしろ天皇陛下の御事にしろ、てんしさま=天照皇大神様というのはちょっと意味が通らなくなります。
また「元津大神、心の中で唱え奉(まつ)り、皇尊唱え、次に声高く天津日嗣皇尊大神唱え、天のひつくの大神と唱え奉れ」のように「皇尊(天皇陛下の古い呼称)」と「天津日嗣皇尊大神」を分けている箇所もあり、これは普通に読めば別の存在となります。もし一緒ならその後ろの「天のひつくの大神」も一緒でないと文としておかしいです。あるいは皇尊と天津日嗣皇尊大神をまとめて天のひつくの大神として奉れとも読めます。
てんしさまと天照皇大神様がイコールではないと思う部分は次のような部分です。
「てんし様は生き通しになるぞ、御玉体(おからだ)のままに神界に入られ、またこの世に出られる様になるぞ、死のないてんし様になるのぞ。」
元の御玉体のまま神に入られとか死のないてんし様と述べられていますが、これは幽の顕の神界の絶対神としての天照皇大神様を直接指す用語としては不適切です。
生き通しというのは地上で肉体を持ったままという意味なのか、それとも幽界で人間として生まれてこないという意味なのか(死とは存在する世界を移動する手続きなので)、わかりませんが同じく天照皇大神様を直接指す用語としては不適切です。普通に考えれば天照皇大神様は元々生き通しでしょうし、死もないはずです。
ここは人間的に解釈するなら天皇陛下のことを指しているようにも取れる一文で、昔のように人間にとって幽界と物質界の区別がなくなる未来が来るような一文に見え、天皇陛下はそうなるという風にも読めます。
皇孫邇邇芸命様の御事について古事記では
爾に天照大御神、高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔りたまひけらく、「今、葦原中国を平け訖へぬと白せり。故、言依さし賜ひし隨に、降り坐して知らしめせ。」とのりたまひき。
爾に其の太子正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、答へ白したまひけらく、「僕は降らむ装束しつる間に、子生れ出でつ。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命ぞ。此の子を降すべし。」とまをしたまひき。
とあるように皇孫邇邇芸命様が天照大御神様の御言以て地上世界を治める初代の天津日嗣皇尊であり、この神はそのまま現在の大地の神界の主宰神として小櫻姫物語で語られています。
高天原の神界から一段降ったところが、取りも直さずわれわれの住む大地の神界で、ここに君臨遊ばすのが、申すまでもなく皇孫命様にあらせられます。ここになるとずっとわれわれとの距離が近いとでも申しましょうか、御祈願をこうむれば直接神様からお指図を受けることもでき、又そう骨折らずにお神姿を拝むこともできます――。尤もこれは幾らか修行が積んでからの事で、最初こちらへ参ったばかりの時は、何が何やら腑に落ちぬことばかり、恥かしながら皇孫命様があらゆる神々を統率遊ばす、真の中心の御方であることさえも存じませんでした。『幽明交通の途が杜絶ているせいか、近頃の人間はまるきり駄目じゃ……。昔の人間にはそれ位のことがよく判っていたものじゃが……。』――指導役のお爺さんからそう言ってさんざんお叱りを受けたような次第でございました。
小櫻姫物語
小櫻姫様が嘘をつくわけがないのですが、霊界物語やひふみ神示などの艮の金神系の神示では地球が出来た当初は国祖・国常立尊様が治め、そして引退させられ、次に素戔嗚尊様が治め、そして引退させられ、次に大自在天・大国彦様と盤古大神・塩長彦様の世になって現代に続いていることになっています。
古事記では素戔嗚尊様が治め、そして引退させられ、次に大国主神様、少彦名神様の時代になって、国譲りがあり、皇孫邇邇芸命様が地上を治めるという流れです。
日本神話は神界と地上物質世界がごっちゃになっており、天照大御神様は間違いなく神ですが、神武天皇まで下ると人間となってしまい、境目がよくわかりません。霊界物語も同じです。
小櫻姫様の言葉をそのまま取るなら古事記の内容に沿って皇孫邇邇芸命様が地上神界の主宰神ということになります、明治・大正・昭和の頃は少なくともそうであるということになります。
また出口王仁三郎のいう顕の顕や幽の幽の神の図を引き合いに出してみると以下のようになります。
幽之幽神 | 無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊、大妙体の事。 天御中主神、並びに高皇産霊、神皇産霊のニ霊を合一し、三神即一神の幽神。 世界一般に通じて神と言うは、無声無形の幽の幽にます神様を指す。 |
幽之顕神 天上の霊界 |
天之御中主大神の御精霊体を完備し、茲に『霊系祖神』『体系祖神』ニ神を顕現され、霊界を主宰する神々。 皇祖天照大御神、並びに素盞鳴神様のこと。 天上の主権-(皇祖)天照大御神様に帰し、地上の主権-(皇祖)素盞鳴神に帰す。 天上の神界では、天照大御神様を主神と仰ぎて、八百万の天津神が政事を輔佐している。 |
顕之幽神 地上の幽界 |
大地球成就の為に顕現し、国土を修理固成し、神人安住の基礎を定めて、地上の幽界を主宰する神霊。 国祖国常立尊、豊雲野尊、又は一度現世にその肉体を表現された神様。 地上の神界では、国祖国常立尊を主神と仰ぎて、八百万の国津神が奉仕している。 *霊界物語では盤古大神様、異境備忘録や幸安仙界物語では少彦名神様、小櫻姫物語では皇孫邇邇芸命様と異なる。ひふみ神示でも元々は国常立大神様だったが、今は違うという趣旨のことが書かれています。 |
顕之顕神 地上 |
天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降った、皇孫邇々岐尊様を初め、歴代の天皇陛下。 上は内閣総理大臣より、各省の大臣及び各局長、各府県知事、裁判所長、検事局長、郡市長、警察署長、郵便局長又は町村長。 |
それは置いておき、天照大御神様から見れば地上世界を任す存在として初代の地上の統治神として皇孫邇邇芸命様、そしてそのまま系図を追えば歴代の天皇陛下という流れになり、全員が天津日嗣皇尊大神(という役職を連ねている)ことには変わりありません。
そういう意味では天津日嗣皇尊大神というのは地上世界を治める称号や役職の名称として、初代の皇孫邇邇芸命様も今上天皇も同じ天津日嗣皇尊=てんし様ということになります。
てんし様という言葉が現行の地上神界の主宰神を指す皇孫邇邇芸命様を指し、今上天皇を古い呼び名で皇尊と呼ぶなら
「元津大神、心の中で唱え奉(まつ)り、皇尊(天皇陛下)唱え、次に声高く天津日嗣皇尊大神(皇孫邇邇芸命)唱え、天のひつくの大神と唱え奉れ」
の意味が通ります。
「天津日嗣皇尊大神」を単なる役職や称号名として用いているなら、てんし様=皇孫邇邇芸命様=天皇陛下は現代の役職としての天津日嗣皇尊なわけですから「てんし様まつれと申してあろが。天津日嗣皇尊大神様とまつり奉れ。」という一文も同じく意味が通ります。
系図をそのままに受け取って良いなら地上世界を治める役職としての天津日嗣皇尊大神は徳仁陛下を以て初代天津日嗣皇尊大神である皇孫邇邇芸命様から数えて第129代目(神武天皇から数えると天皇としては126代目)となります。
「神力が九分九厘まで負けたようになったときに、マコトの神力出して、グレンと引っ繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめて治しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ」というのは今の地球の政治情勢を考えればちょっとあり得ないと思いますし、てんし様がまるきり神様のように書かれている箇所もあるので、現在の地球の状況を考えれば普通にありえないと感じられますが、ひふみ神示の予言で書かれているようなことが本当にそうなるなら、そうなっても少しもおかしくはありません。
予言については次回書きたいと思います。