神の道に進むために罵られることは人民の喜びぞ。その喜び越えて神の喜びに入れば罵られることないぞ。神敬ふはまだまだぢゃぞ。早うサトリて、神に融け入れよ。かのととりの日。一二十
 

そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質の目当て作るであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。

 

念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

 

我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、御稜威にとけ入るのざぞ、

 

(ひふみ神示)

 

 

ひふみ神示原文は記号と数字であり、訳している人がその時に応じて「祀る」「奉る」「祭る」「真釣る」なども字を当てているだけで、ひふみ神示そのものは8通りに読めると言われています。

 

 

またひふみ神示には神を祀れという文言が散見されますが、これは神棚や神社で行っているようにいわゆる祭典という意味もあるのでしょうが、もっと大事なのは真釣りなのではないかと思うことがよくあります。


 

ここでは真釣り合うという言葉を調和や和合するという意味で使っていますが、ひふみ神示には「神敬ふはまだまだぢゃぞ。」のように神を敬うだけではまだまだ未熟で神に溶け入れと述べられていて、一般的な神社参拝や神棚で神を祀ったりするだけでは足りないという風に受け取れる文言があり、「祀る=敬う」だけでなく、「真釣る=神と調和して神に溶け入る」という風に受け取れる部分があります。


 

山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆何もかもまつりあった姿が神の姿、神の心ぞ。みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、足らぬと思ふてゐるが、余ってゐるではないか、上の役人どの、まづ神まつれ、神まつりて神心となりて神の政治せよ、戦など何でもなく鳧がつくぞ。

 

 

 神の国の山にまつりて呉れよ、まつるとは神にまつらふことぞ、土にまつらふことぞ、人にまつらふことぞ、まつりまつりて嬉し嬉しの世となるのぞ、まつるには先ず掃除せねばならんぞ、掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ。六月二十七日、一二

 

 

一二三となる日近づいたぞ、節分迄に皆の守護神 同じ宮にまつりくれよ、まつりまつりてまつり合せ、和合して物事成就するのぞ。まつる心なき者 誠ないぞ、マコト判らんぞ。靖国のミタマもそれ迄に奥山にまつりくれよ、まつり替へてやりてくれよ。世界の神々様、守護神様、人民のみたま、祀りくれよ、まつり結構ぞ。

 

 

何もかも臣民では見当取れん事になって来るからお上に神まつって呉れよ、神にまつらって呉れよ。神くどく申して置くぞ早く祀らねば間に合わんのだぞ。神の国の山々には皆神祀れ、川々に皆神祀れ、野にも祀れ臣民の家々にも落ちる隈くまなく神祀れ。まつりまつって五六七の世となるのぞ。臣民の身も神の宮となって神まつれ。まつりの仕方知らせてあろう。神は急せけるぞ。

(ひふみ神示)

 

ほかにもたくさんありますが明らかに「まつる=祀る・祭典を開く」ような意味では無く、調和という意味でまつるという言葉を使っている箇所はたくさんあります。

少なくとも「神にまつらって呉れよ。」や「皆何もかもまつりあった姿が神の姿」のように明らかに「まつり=祀りや祭り」とは受け取れない部分は多数あります。

 

 

神棚や神社で神様神様と祝詞を大声でガアガア唱えたり、お供え物をしたりするのは、如何にも宗教っぽい「祀り」ですが、そういうのもありだとは思うものの、もっと大切なのは神が人間たちを助けようとするように神と調和し、和合して、神と一体になることが次の段階なのではないかと思います。

 

 

神棚で神を祀ったり、神社にパワースポットだとか、個人的な祈願で行くのも別に絶対に駄目だとは思いませんし、人によっては必要なことかもしれませんが、人間が周囲と調和し、神に溶け入り、神の一部になって世のため人のために働くことの方が、ただ神様神様と祝詞を一生懸命唱えたり、自分のするべき仕事をせずに神社巡りしたり、御神業などと言って宗教っぽい行事にハマっていたり、自分の願望を祈願するような一般的な祭典・礼拝のみを行う一人も立派であるはずです。

 

 

 

多分、神は人間に立派に成長して欲しいと考えているはずで、そういう意味では師匠と弟子という関係に似ているかもしれません。師匠は弟子に対して立派に成長させてあげたいと思っても、弟子が師匠を祭り上げ、敬っているだけでは弟子は少しも進歩しません。

 

 

弟子が成長するには自らの努力によってしかないわけですが、「皆何もかもまつりあった姿が神の姿、神の心ぞ。」のように、神や人や自然と調和した生き方をして、神がしているように人助けをするようになる、つまり守られるだけの子供の立場や指導されるだけの弟子の立場から立派な大人や一人前の人間になることこそが大切であるはずです。

 

 

ただ神に守られるだけの子供のような存在から、今度は自分も神の側に回って神と共に人間たちを守るようになるというのは、要するに神の立場に人間が立つようになるということです。一生子供のままというわけにはいきません。

 

 

マイヤースの個人的存在の彼方にも死後、霊が進歩していくと「創造された側が創造する側に回るようになる」という文章がありますが、地上ではどうしようもないこともたくさんあるものの、せめて少しくらいは一方的に手が掛るだけで何の役にも立たない子供のような存在であるよりも、神がそうであるように世の中のために役立つような人間になった方が良いと個人的には思います。

 

 

またこれは神=大我に溶け入るという意味もあるようで、より大きく浄化した自分と一体になることで自分の能力を引き出したり出来るようになるという意味があるようにも感じます。

 

 

シルバーバーチやマイヤースによく大我とか類魂の本体いう言葉が出て来ますが、地上に生まれている人間はダイヤモンドの1つ1つの側面であり(インディビジュアリティー)、人間一人一人が個別の独立した存在では無いということが述べられてます。

 

 

 

――その意識の本体へ戻ったとき、各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思うのですが……

川が大海へそそぎ込んだ時、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか。

 

 

成果が素晴らしいということは霊団としての調和が素晴らしいということでもあります。それは、霊媒の出来が良いということが霊媒と支配霊との調和がいいということであるのと同じです。そうでないと、必ずどこかにきしみが生じます。オーケストラとおなじです。演奏する楽器は一人一人違っていても、ハーモニーさえ取れれば一つの立派なシンフォニーとなります。が、そのうちの一人でも音程を間違えれば、全体が台無しになってしまいます。調和が大切な所以です。

 

(シルバーバーチの霊訓)

 

 

出口王仁三郎の一霊四魂図(類魂)

 

 

 

ひふみ神示の「神敬ふはまだまだぢゃぞ。」というのは普通に考えればたしかにその通りで、ただ神様神様と言っていればそれだけでOKなら仏教の南無アミダブツさえ唱えていればオールオッケー天国行きと全く同じです。

 

 

 

自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。
 高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。
 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。 〇 に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。

(ひふみ神示)

 

この調和するという意味での真釣り=和合は色々な段階があるようで「肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。」のように、ひふみ神示でもシルバーバーチと全く同じことを言っているような箇所があります。これは「出口王仁三郎の一霊四魂図(類魂)」図を連想させますし、明らかに大我のことを言っているように思えます。

 

 

また「高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。」のように、ただ神棚や神社の前でお供えやお賽銭や祝詞を上げているだけでは未熟であり、逆に言えば神に溶け入り、大我に溶け入り、世のため人のために生きるようになればそれ自体が神の心を体現していることになるので、物質的、形式的な意味での祀りは必要なくなるのかもしれません。

 

 

物質的、形式的な意味で神を祀り、それだけで満足するなら、キリスト教のように日常生活や悪事の有無を一切問わず、イエスさえ信じていればただそれだけで天国へ行けるとか、仏教のように南無アミダブツさえ唱えて、死ぬ瞬間に明るい気持ちいればどれだけ悪人でも極楽へ行けるというような無茶苦茶で不平等で不公平で子供騙しみたいな教えと何も変わりません(それならカルマというのは嘘なのかという話にもなります)。

 

 

シルバーバーチも人生において行った善行や悪行の数々が一切無視されて、死ぬ前に罪を告白し、イエスを信じると宣言さえすればすべての罪が許され、まっとうに生きてきた人と同じく天国行きになるなら、それは不平等でおかしいと述べていますが、私も同じように考えます。

 

 

地上で犯罪を山ほど行っている人間とまっとうに生きている人間が両方とも刑務所に入れられたり、両方とも監獄に入らず普通の生活しているのがおかしいように、物質的な意味で神を祀るということも大切なことだと思いますが、ただそれだけでは満足してはいけないはずですし、もしそうであれば「神敬ふはまだまだぢゃぞ。」というのはその通りなはずです。

 

 

大我に溶け入り、神に溶け入り、自分を成長させ、世の中のために役立つ人間になって人を助ける神の側に回ることこそが、おそらく神が人間に求めていることではないかと思います。

また自分が神に溶け入れば、自分も神の一部なわけですから、少なくとも普通の人間がするような神を敬うという心境とはかなり違うはずです。なぜなら自分が敬われる側の一部に溶け入るようになるからです。

 

少なくとも弟子が自分の努力をせずに、師匠を崇めるだけで何の成長もしなかったり、自分の欲望だけを追って人助けを一切しないなら、たしかにそれは霊的には未熟であるはずです。