以前も似たような記事を書きましたが、もう一度述べてみたいと思います。

 

 

人間が不安になったり、悲しくなったり、憂鬱になったりする理由をお話ししましょう。霊界入りしたばかりのため、未だ地獄と結び付いていない霊は胃の中にある腐敗した食べ物のような未消化のものを好みます。

そのため彼らは人間の中のそういった部分と結びつきます(霊と肉が対応します)。そこにいるのが楽しいからです。彼らはそこでお互いの悪い感情を吐き出します。すると彼らの悪感情が人間に流れ込みますが、それがその人の感情に反する場合、その人は悲しくなったり不安になったりします。逆にそれがその人の感情に合えばその人は嬉しくなります。
 

このような霊は胃の近くに現れます。ある者は左、ある者は右、ある者は下、ある者は上、ある者はより近くに、ある者はより遠くにという具合に性向に応じて様々な場所に現れます。

人間がこのようにして不安になることを私は多くの経験から確信しました。

私はこのような霊たちが話し合ってるの見たこともあれば、彼らが引き起こす不安を感じたこともあります。さらに彼らと話し合ったこともあります。彼らが追い払われると不安が消え、戻ってくると再び不安を感じました。彼らが私に近づいたり離れたりすることが私の不安増したり消えたりする原因だったのです。 

 

(スウェーデンボルグ 天国と地獄)

 

 

多くの霊的な書物で述べられていることですが、人間の考えや行動や趣味嗜好の5割から8割くらいは霊の影響であると言われており、個人的な経験からもそう感じています。

良い意味では守護神の感化、悪い意味では悪霊の影響です。善悪どちらとも付かないことでもそうである場合が多いです。

 

不思議というか、恐るべきことに人間はそれをあくまで自分の考え、自分の発想であると考えるのですが、だからこそ人間には自由意志があると言えるわけです。

 

 

酒やたばこやギャンブルを好む人に大抵そういう霊が対応しています。逆に何かの分野で天才的な才能を発揮する人もやはりそういう霊が対応しています。

対応というのは人(物質)と霊が結びつくということで、これもよく霊的な書物で述べられていて、霊だけの存在もなければ、物質だけの存在もありません。2つでセットです。


 

 

神は人となりたいのじゃ、人は神となりたいのじゃ。霊は形を形は霊を求めて御座るのじゃ人は神の入れ物、神は人のいのち。

 

物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。

 

霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。

 

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。

 

ひふみ神示


個人的な経験として人間に限定して述べるならば、一人の人間に対して一人の霊が対応しているという分かりやすい構図ではなく、実際は一人の人間に何十、何百の霊が対応することすらあります。肉体のそれぞれの部分(手足や頭や各種内蔵)には別の霊が感応したり、部分だけでは無く幽体と肉体で感応している霊が異なる場合もあり、そのケースは千差万別ですが、大意としては「霊」と「物質」は常にセットで違いに依存し合い、結びつかないと力や表現が存在しないということです。


スウェーデンボルグは「胃の中にある腐敗した食べ物のような未消化のもの」と述べていますが、特に獣の肉類が非常に悪く、菜食になるほど悪い霊は感応しにくくなるようですが、それでも何か食べる限りは完全にゼロというわけにはいかないようです。

 

 

昔の修行者が断食する理由もこの辺りにも根拠があるのかもしれません。

 


ともあれ無闇に不安になったり、悲しくなったり、憂鬱になったりするのはそういう幽界や霊と霊線が繋がっている、あるいは胃の中の腐った食べ物に対応しているからであって、スウェーデンボルグが言っているように対応している霊が去ったり、繋がりが消えれば不安や悲しみや憂鬱は消えます。

 

 

正直悪魔たちについては書きたくもないですが、人間にそういう感情を起こさせて面白がっている霊もいます。

如何に彼らが凄まじい悪さを人間に対して行っているかを、もし人間が知ったらきっと仰天するはずです。

 

 

ともあれ原因のほとんどは悪い霊との関わりや対応であることが多く、原因が分かれば対処法も簡単に分かります。

 

極端に暴飲暴食をする人は胃に対応している悪霊は食べ物を慎むことである程度対処出来ますが、個人的には霊には霊で対応するのが一番手っ取り早いと感じています。

 


霊の発動をとめて、静かにする法は「国常立大神 守り給へ幸(さき)はへ給へ」と三回くり返すこと。又「素盞鳴大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと、又は「太日月地大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと。世界そのものの霊かかり、日本の霊かかり、早うしづめんと手におえん事となるが、見て御座れよ、見事な事を致してお目にかけるぞ

 

ひふみ神示

 

ひふみ神示にある通りに述べるか、神道が嫌なら主神に祈れば良いわけです。別にキリストでもイスラムでも構いません。悪霊よりも強い天使であれば、簡単に追い払ってくれます。

また神棚の前で神に祈ったり、火や水を供物としてお供えするのも良いです。人間の家々を覗いて回る悪魔や片っ端から無茶苦茶する悪魔がいるのですが、もの凄く神に供えられた火や水を嫌がります。

 

 

嫌がるというよりは、耐えがたい苦しみのようで低級な邪神・邪霊の類いに正神の光や火や水は身を焼かれるような苦痛を感じているように見えます。もちろん正神の気が通ったものであれば、という意味で火や水なら何でも嫌がるわけではありません。

 

 

古典的ですが、神様に塩をお供えして捲くのも良いでしょうし、「国常立大神 守り給へ幸(さき)はへ給へ」や「天照大御神 守り給へ幸(さき)はへ給へ」のような神名を嫌がります。ただ口先だけではあまり効果がないようで、心から強く念じるのがコツのようです。

 

 

人民が正しく言葉すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ。始め言葉の元があるぞ、ムムムムムウウウウウゝゝゝゝゝアと現はれるぞ、神の現はれであるぞ、言葉は神をたたへるものぞ、マコトを伝へるものぞ、倶(トモ)に鳴り、倶に栄えるものぞ。

 

 

ひふみ神示には「人民が正しく言葉すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ」とありますが、これはまさにその通りでそういう法則のようにすら感じます。

 

 

人間が不安になったり、悲しくなったり、憂鬱になったり、怒りっぽくなったりする理由は8割くらいは悪霊の感応なので、こういうのはさっさと始末を付けるに尽きます。